現在、私達が拝読している漢訳の『妙法蓮華経』では、「見宝塔品」第十一の後は「提婆達多品」第十二となっていますが、梵語の原典では、「提婆品」が独立した一品ではなく「宝塔品」の後半に組み入れられ、「宝塔品」の次は「勧持品」第十二となっていました。それを、羅什三蔵が漢訳する際に、内容を詳究した結果、「宝塔品」と「提婆品」を別品にしたのです。ですから、羅什三蔵が長安の草堂寺に於て、『妙法蓮華経』を漢訳された時には、現在と同様二十八品でありました。ところが、その後長安の女官が、竜女成仏を説いた有難い「提婆品」を私物として秘蔵したため、世には二十七品のみの形で流布していたのです。従って、「宝塔品」と「勧持品」の間に文義が欠けて通じないということを、天台大師の師である南岳大師も気付かれていましたが、そのままになっておりました。
その後梁代に至り、満法師が法華経を講ずること百回、毎回「宝塔品」と「勧持品」との間に文義が相通じないと申され、欠品を求めるため長沙郡に於て焼身祈願をされました。その結果、諸天の感応によって百二十年という長い間、行方不明になっていた「提婆品」が世に現れたので、満法師が「勧持品」の前に奉安されたのです。爾来、羅什三蔵が翻訳された通りの二十八品として、現在に伝えられています。
以上申し上げた内容は、天台大師智顗の講述された『妙法蓮華経文句』巻第八「釈提婆達多品」〔(大)三十四巻一一四頁〕と、妙楽大師湛然の『法華文句記』巻第八「釈提婆達多品」〔(大)三十四巻三一二頁〕に詳述されています。日蓮聖人は、天台・妙楽両大師の学説により、『女人成仏鈔』〔(定)三三二(縮)五二九(類)一〇五七〕に、
「此提婆品に二箇の諫暁あり。所謂る達多の弘経、釈尊の成道を明し、又文殊の通経竜女の作仏を説く。されば此品を長安宮に一品切り留めて二十七品を世に流布する間、秦の代より梁の代に至るまで、七代の間の王は二十七品の経を講読す。其後、満法師と云ひし人、此品法華経になき由を読み出され候て後、長安城より尋ね出し、今は二十八品にて弘まらせ給ふ。」
とご指南されております。
本隆寺開山真師の学説を伝承する、『真流正伝鈔』巻三「提婆品」〔(宗全)十巻一一九頁・原漢文〕には、
「此の品は、羅什翻訳の後ち秦の姚興皇帝の宮女ども、竜女が成仏の事を有難く思い、仏法の上にさえ女の本性とて、嫉妬の念を起し、此の一品を私の物にして切り抜て世に出さず。其の後ち梁の満法師と云う人、法華経を百部講じ玉うが、毎度宝塔・勧持の間に文義相連せずと言れしことを大師も釈せり。其の後ち、南岳大師、初は此の二品の間に文義闕けたりと不審を成し給いたれども、六根浄に叶い給ひて後ち、法門の義理続かざることを仰せ出されしが、惜しい哉上の二師は此の品を見玉はずと見えたり。而るに、天台の時に至って江南・江北・河西・淮東の四涜一味して梁を亡し、陳隋の代と成る時、中直りの祝言に此の品を出すと見えたり。」
と詳述されています。
なお、ご参考までに『大蔵経目録』〔(大)五十五巻〕によって、羅什訳『妙法蓮華経』の巻数と品数を調べますと、
となっており、『鳩摩羅什伝』第一〔(大)五十五巻一〇二頁A〕には、
「若し所伝誤り無ければ、焚身の後舌燋爛せず。以て晋の義煕中、長安に於て卒す。即ち逍遙園に於て外国の法に依って以て屍を火焚す。薪滅し形化するに唯舌のみ変ぜず。」
と明記されています。
日蓮聖人は、この大蔵経目録に目を通されて、最も完全で権威のある「開元録」と「貞元録」に拠られていることは、『聖愚問答鈔』に、「開元・貞元両度の目録云云……。」と申されていることによっても明らかであります。
ところが有名な学者の中にも、羅什訳の『妙法蓮華経』は当初二十七品で、「提婆品」は後から付け加えられたものであると主張している人がありますが、何れも法華三大部と日蓮聖人の御書を全部読んでいない証拠で、大蔵経目録ですら完全に詳究せず、一犬虚を吠えて万犬実を伝うことは、甚だ遺憾であります。日蓮聖人は、天台・妙楽・伝教三大師の後を偲び、法華三大部を明鏡として、「五時八教」の天台教相の基盤に立った日蓮教学を樹立提唱されていることは、『観心本尊抄』・『開目鈔』等を拝すれば、夜中の満月のごとく明らかであります。「提婆品」については『上野殿御返事』〔(定)一六三五(縮)一八四一(類)六〇一〕に、
「提婆品を案ずるに、提婆は釈迦如来の昔の師なり。昔の師は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり。古今能所不二にして、法華の深意をあらはす。されば悪逆の達多には慈悲の釈迦如来師となり、愚痴の竜女には智慧の文殊師となり。文殊・釈迦如来にも、日蓮をとり奉るべからざる欤。日本国の男は提婆がごとく、女は竜女にあひにたり。逆順ともに成仏を期(ご)すべきなり。是れ提婆品の意なり。」
と指南されています。
七十五代崇徳天皇は「提婆品」を拝され、「果(このみ)を採(と)り水を汲(く)み、薪(たきぎ)を拾ひ食(じき)を設け、乃至身を以って牀座(じょうざ)と作し」のお経文によって、
二つなき 法の契を千歳まで 谷の水にや むすびおきけむ
いにしへは しく人もなく習ひ来て さゆる霜夜の 牀となりけん
と、千歳給仕の経意をお詠みになっています。また、選子内親王は竜女成仏について、
障にも 障らぬためし有りければ 距つる雲も あらじとぞおもふ
と、お詠みになっています。
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