南無妙法蓮華経とばかり唱となえて佛ほとけになるべき事こともっとも大切たいせつなり
『日女御前にちにょごぜん御返事ごへんじ』
身延山の日蓮大聖人のもとに鵞目がもく五貫ごかん、白米はくまい一駄いちだ、果子かしが、御本尊ほんぞんの供養のために送られます。これらのすべては、日女御前にちにょごぜんによる品物です。そこで大聖人は供養の品物に対してお礼の言葉を認したためたお手紙(建治けんじ三年〈一二七七〉八月二十三日付)を返されます。
ところで、日女御前の素性は、確かな根拠がある訳ではないため、詳細には分かりません。しかし、他のお手紙から知られているように、日女御前の供養の品物が他の檀越だんのつと比べると多額であることから、経済的にも自立し、社会的地位も高いことが考えられています。また、日女御前宛てのお手紙の内容からみて、法華経への信仰も深く、仏教教義の理解も十分に持ち合わせていると思われます。
さて、本文には御供物へのお礼の言葉につづいて、御本尊の基本的な様相について語られ、御本尊への御供養の広大さを説いています。そして、お題目への信心修行しんじんしゅぎょうの肝要かんようを書き示しています。つまり本文には、御本尊に関する内容とお題目修行に関する内容の二つに大別することができます。
大聖人がお示しになる御本尊は「本門ほんもんの本尊」です。これは、久遠実成くおんじつじょうのお釈迦様を意味し、今もなお私たちに救いの手を差し伸べてくださっている尊い仏様です。
まず本文には、お釈迦様在世中は、本門八品はっぽん(涌出品ゆじゅっぽん第十五~嘱累品ぞくるいほん第二十二)にて本門の御本尊が顕現けんげんされたことについて書かれています。御入滅にゅうめつ後は、二千年が過ぎた末法まっぽうの時代に入り、本門の御本尊が大聖人によって、闡明化せんめいかされたことが記されています。
ついで、御本尊を供養することの功徳は、大いなるものであることが示されます。
そして、仏になれるかどうかは、お題目を唱える修行こそが大切であり、それは修行者の法華経への信心が、厚いか薄いかに依るものと述べられているのです。
一乗いちじょうの羽はねをたのみて寂光じゃっこうの空そらをもかけりぬべし
『盂蘭盆うらぼん御書ごしょ』
身延山の日蓮大聖人は、弟子のひとり治部房日位じぶぼうにちいの祖母より供養の品物が届けられた際に盂蘭盆うらぼんについて尋ねられたため、供養の品物を仏前にお供えした旨と盂蘭盆について説明されたお手紙(弘安こうあん三年〈一二八〇〉七月十三日付)をお返しになります。
盂蘭盆の由来は、お釈迦様の弟子のおひとり目連尊者もくれんそんじゃが、各地から優れた僧侶を集められ、たくさんの食べ物を供養し布施をすることで、餓鬼道がきどうに堕ちている自身の母親を救い出される話から来ています。
そして、大聖人はこの盂蘭盆のお話を法華経の教えの観点から繙ひもとかれます。それは、法華経によって目連尊者の成仏が達成されるときに、彼の父母もまた成仏が果たされていくというものです。その根拠は、法華経の教えを聞いた声聞の弟子方(目連尊者などの二百五十もの戒律かいりつを守り続ける仏弟子方)が、お釈迦様から成仏の約束を授けられたとき、彼らの願いもまた達成されるという教えから明言されています。
ついで、目連尊者が法華経に心から帰依する行いは、父母だけに限られず「上かみ七代下しも七代、上無量生むりょうしょう下無量生の父母等存外ぞんがいに仏となり給う」とて、ご先祖様や子孫、さらにはその先のご先祖様や子孫など、所縁ゆかりあるすべての人々の成仏が適かなえられる功徳であることを説かれるのです。
最後に大聖人は日位の祖母に対して、孫を法華経の行者になさしめたことを尊びます。そして、日位の法華経修行の功徳により、祖母もまた法華経という翼に身を委ねることができ、お釈迦様が常住する法華経信仰の世界を翔けめぐることができる、と教示せられます。それは、日位の祖母だけに限られたことではなく、彼の父母、祖父母をはじめ、子孫たちにも及びます。
こうして大聖人は、日位の祖母を気遣われているのです。
日蓮にちれん一人いちにん南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経等とうと声こえもおしまず唱となうるなり
『報恩抄ほうおんじょう』
日蓮大聖人は、度重なる法難に見舞われることにより、御自身を「法華経ほけきょうの行者ぎょうじゃ」と自覚されています。法華経の行者とは、お釈迦様の尊い教えを研鑽され、それを現実の場面で実践することに重点を置く、仏教の体現者を意味しています。つまり、大聖人が身命を捧げ、法華経の教えを現実の場面で体現せられていることから、お釈迦様の尊い教えと現実社会とが、不即不離の深い関わりを持っていることが明瞭めいりょうに理解できるのです。
さて、大聖人は、建治けんじ二年(一二七六)七月二十一日に『報恩抄』と題する書を認したためられます。本書の末に「甲州こうしゅう波木井郷はきいのごう蓑歩嶽みのぶのたけより安房国あわのくに東条郡とうじょうのごおり清澄山きよすみさん浄顕房じょうけんぼう義城房ぎじょうぼうの本もとへ奉送ぶそうす(原漢文)」と記されていることから、かつて大聖人が清澄山きよすみさんで修学された頃の兄弟子である浄顕房じょうけんぼうと義浄房ぎじょうぼうのお二人を宛所としていることがわかります。また執筆の目的は、大聖人の清澄山での師道善房どうぜんぼうの死去の知らせに接し、師匠に対して報恩感謝のご回向を行うためです。また、本書を弟子の日向にこうに託し、清澄にある師の墓前にて読誦せしめていることが知られています。
道善房は、大聖人の清澄山での師匠ではありますが、念仏の信仰を基本としていたようです。そして、建長けんちょう五年(一二五三)大聖人が、清澄の僧侶等に対して御自身の法華経信仰を披瀝ひれきし、念仏信仰の誤りを強く説いたために、清澄寺の別当べっとうや地頭東条景信とうじょうかげのぶの影響をはばかって、大聖人を勘当かんどうすることになります。その後も、道善房は法華経信仰を基本とするには至りませんでした。
大聖人は、本書にて生涯法華経信仰を拒んだ道善房を厳しく批判しつつも、法華経の行者としてこれまでお題目の声を上げ、法華経信仰を持たれてきたお立場から、師道善房へ報恩を尽くし、惜しみなく法華経の功徳を捧げるのです。
これは巻末の「此この功徳は故道善房の聖霊しょうりょうの御身おんみにあつまるべし」というお言葉から拝受することができるのです。
法華経ほけきょう修行しゅぎょうの者ものの所住しょじゅうの処ところを浄土じょうどと思おもうべし
『守護国家論しゅごこっかろん』
建長けんちょう五年(一二五三)四月二十八日、清澄寺せいちょうじの僧侶等に対して、日蓮大聖人はご自身の法華経信仰を披瀝ひれきされます。しかし、法華経信仰の重要性を示すときは、念仏ねんぶつ信仰等の従来の仏教信仰の在り方を問い直し、信仰を改めることを強調しなければなりません。その結果、念仏信仰の立場を採用する清澄寺の別当べっとうや地頭じとう東条景信とうじょうかげのぶの影響もあって、大聖人は清澄寺からの勘当かんどうを受け、寺を退出されるのです。その後、法華経信仰を弘めるべくして大聖人は、鎌倉かまくらへ向かわれます。
ところで、建長六年(一二五四)から正元しょうげん元年(一二五九)までの大聖人の動向は定かではありません。しかし、鎌倉にて法華経弘通のさなか、正嘉しょうか元年(一二五七)から文応ぶんおう元年(一二六〇)にかけて、立て続けに起きた自然災害に被災ひさいしていることが考えられます。それは大聖人のお手紙から知られ、鎌倉幕府の記録が書かれた『吾妻鏡あづまかがみ』には具体的な被害の状況が述べられています。正嘉元年に大地震が発生し、鎌倉の寺社仏閣が全壊、山々は崩れ家屋も倒壊、甚大な被害がもたらされました。また、暴風により各地の田畑が損壊、大雨洪水による水害が発生、飢饉が起こり、さらに疫病が蔓延するのです。
大聖人は鬼哭啾々きこくしゅうしゅうたる鎌倉の惨状を目の当たりにされています。そして、仏教者として災害の発生原因と解決策の解明に努め、この世界に仏国土ぶっこくどを築くための方法を導こうとされます。その作業は、全ての仏教経典の内容を再度探求され、その結論を『守護国家論』と『立正安国論りっしょうあんこくろん』に認められるのです。
『守護国家論』では、明確な項目を立て、源空げんくうの『選択本願念仏集せんちゃくほんがんねんぶつしゅう』が人々を悪道に誘いいれ、国に災害をもたらす悪書であると指摘し、経典きょうてんや論疏ろんじょを丁寧に引用されて浄土教じょうどきょうを糾弾きゅうだんしています。また、大聖人の法華経を依拠いきょした国家や国土に対する理解が教示されています。そして、大聖人が示す浄土とは、久遠くおんのお釈迦様が常住じょうじゅうする浄土です。それは法華経の経典を尊ぶことで、たとえば園そのの中や林はやしの中、樹きの下もとでも、その処ところが法華経の道場どうじょうとなるのです。
我わが身みは藤ふじのごとくなれども法華経ほけきょうの松まつにかかりて妙覚みょうかくの山やまにものぼりなん
『盂蘭盆うらぼん御書ごしょ』
身延山の日蓮大聖人のもとに米一俵こめいっぴょう、焼米やきごめや瓜うり、茄子なす等の供養の品物が届けられます。これらの供養の品物は、大聖人の弟子のひとりである治部房日位じぶぼうにちいの祖母によるものです。またこの時に、盂蘭盆うらぼんについて尋ねられたため、大聖人は供養の品物を仏前にお供えした旨と盂蘭盆について説明されたお手紙をお返しになります。弘安こうあん三年(一二八〇)七月のことです。
大聖人はお手紙にて、御供物への感謝を述べたのち、盂蘭盆の由来を説明されます。そして、法華経信仰の尊さをお説きになり、最後に法華経によって導かれる祖母の功徳を明かされているのです。
盂蘭盆の由来は、お釈迦様の弟子のおひとり目連尊者もくれんそんじゃが、七月十五日各地から優れた僧侶を集め、たくさんの食べ物を供養し布施をすることにより、餓鬼道がきどうに堕ちて苦しむ母親を救い出す話から来ています。
大聖人は、盂蘭盆の由来を受けて、目連尊者の成仏についてお説きになります。目連尊者は、声聞しょうもんの弟子です。つまり、二百五十もの戒律かいりつを固く守るお弟子です。しかし、法華経が説き明かされるまでは、成仏ができないとされていました。ついに、法華経が説かれるとき、お釈迦様によって声聞の弟子も成仏する約束が授けられます。目連尊者は、戒律を捨て直ちに法華経に帰依きえしたところ、多摩羅跋栴檀香如来たまらばっせんだんこうにょらいという名号みょうごうが授けられています(法華経授記品じゅきほん第六)。そして、大聖人は声聞の弟子たちが成仏の約束を授かるとき、彼らの願いもまた達成される教え(法華経授学無学人記品じゅがくむがくにんきほん第九)を根拠にして、目連尊者が成仏するときには、彼の父母もまた成仏することをお説きになります。
この意味において、日位の祖母に対して、法華経信仰の功徳の必然性を藤と松の譬えをもって教示せられているのです。
釈迦佛しゃかぶつは霊山りょうぜんより御手みてをのべて御頂おんいだだきをなでさせ給たもうらん
『松野殿女房まつのどのにょうぼう御返事ごへんじ』
文永ぶんえい十一年(一二七四)三月八日、佐渡さど流謫中るたくちゅうの日蓮大聖人のもとに、鎌倉幕府より流罪るざいの赦免状しゃめんじょう(同年二月十四日付)が届けられます。こうして、佐渡流謫の生活が終焉しゅうえんを迎えます。三月十三日、大聖人は一谷いちのさわを出発して、同月二十六日に鎌倉へ帰着せられます。
その後、同年四月八日、大聖人は幕府の侍所さむらいどころに召喚され、平頼綱へいのよりつなと対面するのです。大聖人を召喚した目的は、蒙古もうこ襲来しゅうらいの時期とその防衛策を質問するためです。
これに対して大聖人は、仏教経典に依りながら蒙古襲来の原因を答えます。それは、日本中で邪法じゃほうが蔓延まんえんしているためであるというものです。すなわち、大聖人は襲来の原因が国内に問題があるとして捉えられ、その解決策こそがお題目だいもくの受持じゅじにほかならず、法華経信仰を再び勧めます。しかし、軍事的な課題として蒙古襲来を解決したい頼綱は、大聖人の意見を聞き入れることはありません。そればかりでなく、幕府の役人たちは異国調伏いこくちょうぶくの加持祈祷かじきとうを邪法の僧侶などに命じることを止めることはありませんでした。
大聖人は、自身の意見が再び聞き入れられなかったことを受けて、悲しみを感じます。召喚の約一ヶ月の後、ついに鎌倉を退出され漂泊ひょうはくの思いを吐露とろするのです。そして、信者のひとり波木井実長はきいさねながに招かれて、甲斐国かいのくに身延みのぶに辿り着きます。当初は身延にひとときの滞在とお考えになられていましたが、実長のもてなしもあって、八年四ヶ月に及ぶ生活を身延山で過ごされることになります。次第に弟子や檀越だんのつ方が身延山の大聖人を訪れたり、使者を遣わして供養の品物を届けたりと、交流が活発になります。前掲のお手紙(弘安二年〈一二七九〉六月)からも、身延山における檀越との交流を窺うことができます。
大聖人は松野六郎左衛門入道まつのろくろうざえもんにゅうどうの妻による麦や里芋などの供養の品物に対して、信仰的なお言葉を用いて、感謝の意を最大に述べられているのです。
法華経ほけきょうを持たもつ男女なんにょのすがたより外ほかには宝塔ほうとうなきなり
『阿佛房あぶつぼう御書ごしょ』
日蓮大聖人の教えに耳を傾け法華経信仰に誘われた阿仏房は、塚原の三昧堂に住まわれていた大聖人に対して、食料を届けるなどの御給仕をされていた檀越だんのつです。
前さきに掲げたおことばは、大聖人が阿仏房に対して供養の品々のお礼と、彼が持つ質問に答えるために認めたとされるお手紙の一節です。建治けんじ二年(一二七六)三月のことです。
本文にみられる阿仏房の質問とは、法華経見宝塔品けんほうとうほん第十一に説かれている、多宝如来たほうにょらいが登場せられ煌きらびやかな塔廟とうびょう(多宝塔たほうとう)が出現された意味は一体何か、というものです。本文の結論は、妙法蓮華経の五字がまさに宝塔そのものであり、修行者が法華経を信じお題目を唱える姿こそが宝塔である、というものです。さらに、お題目を唱えるその場所にこそ宝塔が立たたれるものだ、と記されています。
ところで、法華経に説かれている多宝塔について少しく尋ねてみましょう。
見宝塔品のはじめに、お釈迦様が法華経を説かれている所に、巨大な宝塔が空中に涌わき現れる様子が描かれています。そして、この見事な宝塔を説法の場にいる人々が目まの当あたりにされます。ついで、この宝塔の中に安置されている多宝如来が、大音声だいおんじょうを響き渡らせて妙法蓮華経の教えが真実であると讃えられて、多宝塔の扉が開かれるとき十方分身諸仏じっぽうふんじんしょぶつが来集らいしゅうされるのです。
大聖人も仰あおがれる天台大師てんだいだいし智顗ちぎ(五三八~五九七)は、多宝如来の宝塔涌現ゆげんはお釈迦様の説法の真実が証明されるとともに、のちの如来寿量品における永遠のいのちの教えが説とき顕あらわれることをうながすもの、と解釈されています(『法華文句ほっけもんぐ』巻第八下)。
これを受け大聖人は見宝塔品を「寿量品の遠序おんじょ」(『開目抄かいもくしょう』)と定められ、如来寿量品の教えが呼び起こされる起因きいんである、と理解されていることが窺うかがえます。
ただ法華経ほけきょうばかりこそ女人成佛にょにんじょうぶつ悲母ひもの恩おんを報ほうずる実まことの報恩経ほうおんきょうにては候そうらえ 『千日尼御前せんにちあまごぜん御返事ごへんじ』
罪人として佐渡さどに流された日蓮大聖人は、文永八年(一二七一)十一月上旬から翌九年(一二七二)四月上旬までの約五ヶ月間を墓地の中にある死者を供養するための草堂そうどう(塚原つかはらの三昧堂さんまいどう)で過ごされていたことが知られています。この建物の大きさは、一間四面ほどであって、屋根は朽ち破れて雨漏りもひどく、壁は風を防ぐことはなく、外の景色は道を塞ぐほどの雪ばかりです。その上、厳しい監視の目もあり、二度と大聖人が鎌倉へ帰ることができないように様々な謀はかりごとを企くわだて、迫害を加えようとした人々もいました。
この間、大聖人は佐渡在住の僧侶などの念仏者数百人との法論ほうろんを交わす出来事(塚原間答つかはらもんどう)がありました。文永九年正月のことです。佐渡の守護代しゅごだいである本間重連ほんましげつらが立会人となって法論が交わされ、大聖人がことごとく論破する結果となりました。
この塚原問答を契機として大聖人の教えに心を動かされていく人々が現れることになります。例えば、国府入道こうにゅうどう夫妻と阿仏房あぶつぼう夫妻です。この両夫妻は、大聖人が流罪を許されて身延山にご入山以降、大聖人のもとを度々訪れ、親交を深められています。
前さきに掲げた大聖人のお言葉は、阿仏房の妻千日尼せんにちあま宛てに届けられたお手紙の一節です。そこには、女性の成仏は法華経の教えに限ることを証あかし、千日尼の法華経信仰による成仏の保証が説かれています。
大聖人は、尊い生命いのちを受け、法華経にめぐり会えていることを最上の悦びとされています。このご恩に感謝する生き方のひとつに父母ふもへの報恩ほうおんがあります。そして、悲母ひもへの報恩とは、すべての女性の成仏であって、その唯一の方法が南無妙法蓮華経をすべての女性に唱えてもらうことです。これこそが大聖人の悲母への報恩の実践であり、そのことをこのお手紙から感得することができるのです。
釈迦佛しゃかぶつと法華経ほけきょうの文字もんじとはかわれども心こころは一ひとつなり
『四条金吾殿しじょうきんごどの御返事ごへんじ』
日蓮大聖人の篤信者とくしんしゃのお一人である四条金吾しじょうきんごは、佐渡さど流謫中るたくちゅうの大聖人のもとへ使つかいを遣つかわして種々しゅじゅの供養の品物を届けます。この供養の品々は、四条金吾の亡き母の三回忌追善供養ついぜんくようのためです。そこで大聖人は、遠路遥々佐渡の地まで供養の品々を届けてくれた四条金吾のお気持ちに深く感謝し、その行いを褒め讃える内容のお手紙をお返しになります。文永九年(一二七二)九月のことです。
お手紙のはじめに、中国の故事こじを引かれ、国王こくおうと人民じんみんの関係性を示されています。そこには、人民は必ず国王に付つき随したがうものだから、国王の行い次第では、社会生活の規矩きくが乱れて、人民の運命を左右してしまうものだと指摘されています。また、仏法ぶっぽうの流布るふも同じくして、国王が仏法を信仰しているか否かによって、仏法の興隆こうりゅうと衰微すいびがあると明言されています。そして、かつてインド、中国において国王が誤った教えを保護していた例を挙げて、今の日本国の人々の多くは、法華経を蔑ないがしろにし、邪法じゃほうを信仰しているため、今にも亡ほろびる危険があることを示されています。
ですから、大聖人は時ときの為政者いせいしゃたちの誤った仏教信仰を呵責かしゃくしていましたが、幕府からの罪科ざいかにより、罪人として佐渡に流されてしまいます。しかし、四条金吾は佐渡の大聖人のもとに供養の品々を届けられます。この行いを大聖人は、無数の仏を供養する功徳より、遙かに勝まさると讃えられるのです。
ついで私たちが法華経のお経文を拝読するときには、お釈迦様と直接お会いしていると思うように、と教示せられ、法華経は生身しょうじん(人々を救うために現す肉身のこと)のお釈迦様であることを説き明かしています。それは、お釈迦様の御声みこえ(梵音声ぼんのんじょう)が、そのまま法華経の文字となって顕あらわれているためだと大聖人は述べられています。
最後に亡き母への追善供養は、お釈迦様も御存知のはずで、母へのこの上ない孝養こうようのであると称讃されています。
衆生しゅじょうのこころけがるれば土つちもけがれ心こころ清きよければ土つちも清きよし
『一生成佛鈔いっしょうじょうぶつしょう』
日蓮大聖人は、建長けんちょう五年(一二五三)の立教開宗りっきょうかいしゅう以降清澄寺せいちょうじを退出し、当時幕府が置かれていた鎌倉にて法華経信仰の大切さを人々に弘めていきます。その中、建長七年に篤信者である富木常忍ときじょうにんに対して唱題成仏しょうだいじょうぶつについて教示せられたのが『一生成佛鈔』であるといわれています。
その本文には、妙法蓮華経の五文字が法華経の極めて大切な真理であって、この五文字を唱えることで、一生の間で成仏ができることを記しています。ついで、お題目を唱える心得を明かし、お題目の修行を勧めています。このとき「衆生しゅじょうのこころけがるれば…」と、前さきに掲げたお言葉が述べられています。
すなわち本文中には、衆生(全ての生けるもの)の心の善し悪しによって、今を生かされる地上は、浄土じょうど(仏の国土)とも穢土えど(汚れた国土)ともなる、というのです。
ところで、前掲のお言葉は、あるお経文を要約して引用した文です。またこの前文には「諸仏しょぶつの解脱げだつを衆生心行しんぎょうに求もとめば、衆生即菩提ぼだいなり生死しょうじ即涅槃ねはんなり」のお経文を同じく引用されています。これらのお経文は、どちらも浄名経じょうみょうきょうという経典が典拠となっています。
浄名経とは、鳩摩羅什くまらじゅう訳『維摩詰所説経ゆいまきつしょせつきょう』のことをいい、通称『維摩経ゆいまぎょう』と呼ばれています。昔より、法華経についで広く世間に親しまれてきた経典です。
維摩経の特徴は、お釈迦様やその仏弟子方が主人公として登場されるのではなく、維摩詰という在家者を中心に物語が展開していることです。そして、維摩詰と仏弟子方との対話を通して「不二ふに」の教えが説かれ、大乗仏教への信仰を明らかにしています。
この維摩経に説かれる不二の教えは、偏りがちな考え方を離れることです。つまり、二者択一を離れ、対立する両方を常に考えつつ、自身の言動を省みる教えなのです。
厄やくの年とし災難さいなんを払はらわん秘法ひほうには法華経ほけきょうに過すぎず
『太田左衛門尉おおたさえもんのじょう御返事ごへんじ』
『太田左衛門尉おおたさえもんのじょう御返事ごへんじ』と題するこのお手紙は、弘安元年(一二七八)四月、大聖人が、篤信者の一人である太田乗明おおたじょうみょうに宛てられた書と位置づけられています。
このお手紙の冒頭で、太田乗明より種々のお布施を確かに受け取った旨むねを報告します。そして、五十七歳の厄年やくどしにあたり暫しばらく病により身心の苦労に悩んでいる太田乗明が、この災いを除きたいという願いに答えていく展開となっていきます。
本文は、病と厄年の因縁いんねんを明かし、方便品ほうべんぽんと寿量品じゅりょうほんを書写しょしゃし、これをお守りとして肌身離さず持つことを指示します。ついで、法華経は全ての仏教経典の中で最も優れているから、諸仏諸尊しょぶつしょそんのこの上ない御守護が受けられると説きます。ゆえに、このお手紙の末には、法華経こそが厄の災いを払うことができる秘法ひほうであると書かれています。
厄の年齢は、時代によって様々あるように思われます。鎌倉時代には五十七歳を厄年としていたかもしれません。
ところで、大聖人の御妙判ごみょうはんを繙ひもとくとき、日眼女にちげんにょという女性信者が釈尊しゃくそんの木像もくぞうを造立ぞうりゅうしたことを褒め称える時に、大聖人は厄について触れられています。ここで厄を人の関節、家の垣根などと譬たとえています。そうして、「勇ましい兵士に家を守らせれば盗人を捕え、関節の病気を治療すれば寿命は長くもなります」(『日眼女にちげんにょ釈迦仏供養事しゃかむにぶつくようじ』・現代語訳)とて、日眼女が釈尊の木造を造立した功徳により、諸仏諸尊からの御守護を必ず受けることが説かれています。文末には、「今のあなたは、三十七歳の厄を除くため、と現世での利益を祈るだけのように思われているかもしれませんが、釈尊のお像をお造りになったことは奇特なことですから、後世の成仏も間違いありません」(右同)と、厄を通して、彼女に法華経信仰の大切さを説かれているのです。
我われ日本の柱はしらとならん 我われ日本の眼目がんもくとならん 我われ日本の大船たいせんとならん
『開目抄かいもくしょう』
文永ぶんえい八年(一二七一)九月十二日、侍所さむらいどころ平頼綱へいのよりつなの指示により、日蓮大聖人は、松葉谷まつばがやつの草庵で捕らえられてしまいます。捕らえられた大聖人は、鎌倉の小路を引き回されて、同日の深夜龍口たつのくちにおいて危うく斬首されそうになります。その後、この危機を奇跡的に免れた大聖人は、相模国さがみのくに依智えち(神奈川県厚木市)の本間氏に預けられ、佐渡に配流はいるされることになります。十月十日、依智を出発して、同月二十八日に佐渡さどの松ヶ崎まつがさきに到着します。そして、塚原つかはらにある一間四面ほどのお堂に住まわされます。このお堂は死者を捨てる場所に立てられており、壁面は今にも崩れそうで、堂内にまで雪が降り積もる有様です。
ところで、このような迫害行為は大聖人だけではなく、多くの弟子や信者たちにも加えられていました。そのため、幕府などからの強い弾圧に耐えきれずに、退転たいてんする弟子や信者たちが続出し、その中から、大聖人が説き続けられていた法華経の正しさに対して疑問を抱く者が現れます。つまり、法華経の信仰に生きる大聖人が迫害に遇う姿を何度も目の当たりにしてきた弟子や信者たちは、法華経を信仰していても何も利益りやくはなく、諸天善神の守護はなく、むしろ辛つらいことの連続である、という考え方に至るわけです。
それゆえに大聖人は、法華経信仰の正しさ、迫害の意義、お釈迦様の慈悲の心、諸天善神の守護とは何か、などを明確に答えなければなりません。ですから、弟子や信者たちが抱く疑いの目を開かせるために『開目抄かいもくしょう』を執筆されるのです。
本文には「詮せんするところは天てんもすて給たまえ、諸難しょなんにもあえ、身命しんみょうを期ごとせん」と、強い言葉が出てきます。そして、「本願もとがんをたつ」とて大聖人が三十二歳頃に立てた誓願せいがんを披瀝ひれきされるのです。これが前さきに掲げているお言葉です。
大聖人が度重なる迫害を覚悟し、法華経の信仰を表白する言葉を拝読したとき、真の仏弟子としての大聖人の求道心を感じます。
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