ほととぎすは春はるをおくり にわとりは暁あかつきをまつ
『撰時抄せんじしょう』
日蓮大聖人が示されている仏道修行の基本は、法華経如来寿量品に裏付けされたお題目の修行です。 すなわち如来寿量品にて、良医ろういが、毒薬によって本心を失ってしまった子どもたちのために、大良薬だいろうやくを留め置かれている譬え話を目の当たりにしたとき、法華経の尊い教えには、お釈迦様が私たちを正しい信仰に目覚めさせるための慈悲が具わっていることを知り、私たちのお題目信仰の根幹を窺うことができます。
大聖人は度重なる法難迫害の経験を通して、お釈迦様の使いとしての自覚に立ち、法華経に示されている教説を現実の場面で実際に体験されています。 それは日本国中に法華経の教えを弘ひろく流布るふすると同時に、法華経の真実性を確かめる必要があったためです。この意味において、今こそ私たちは法華経の教えに信仰の心を捧げていく尊さを十分に信じることができるのです。
ところで、日蓮大聖人が佐渡さど流謫るたくを許されて、鎌倉に戻られた後、文永ぶんえい十一年(一二七四)四月八日、平頼綱へいのよりつなに召喚されて蒙古もうこ襲来しゅうらいの時期とその防衛策について対談されます。 その後五月十二日、信者のひとり波木井実長はきいさねながに招かれて、甲斐国かいのくに身延みのぶに向かわれます。
さて翌年の建治けんじ元年(一二七五)、大聖人は全一一〇紙(そのうち一〇七紙が現存)からなる大著『撰時抄』を述作されます。この書は、法華経の真実性を追求せられた大聖人が、お釈迦様の尊い教えに連なる仏弟子として、またお釈迦様からの法脈を受け継ぐ教えの実践者としての立場に立って、お釈迦様が選び定められた法華経が流布すべき「時とき」について著されています。つまり、法華経の教えに深く信仰の心を捧げている限り、私たち凡夫が生かされている時代にこそ、お釈迦様が留め置かれた大良薬としての法華経のお題目が、嘘偽りの無い教えであることを、本書で理路整然と明かされているのです。
営いとなむ所ところは悲母ひもの為ため存そんする所ところは孝心こうしんのみ
『忘持経事ぼうじきょうじ』
建治けんじ二年(一二七六)三月、日蓮大聖人の篤信者のひとりである富木常忍ときじょうにんが、九十歳の高齢で没した母のご遺骨をお持ちになって、弔いのために身延山の大聖人のもとを訪れます。弔いの後、身延山を出発された富木常忍は、自身が所持している経典を大聖人の処に置き忘れてしまうのです。これに気づかれた大聖人は、使いに経典を預けて、富木常忍のもとへとお手紙を添えて届けられています。
お手紙の冒頭にて、中国の帝王学の書物として知られる『貞観政要じょうがんせいよう』の一節を引用して有名な物忘れの話を紹介しています。それは夏か王朝の最後の皇帝桀王けつおうと殷いん王朝の最後の皇帝紂王ちゅうおうが、自らの政治の誤りに気づかずに、ついに自分を見失ってしまった、という話です。また、仏教の中でも、須梨槃特すりはんどくという仏弟子は、自分の名前でさえも忘れてしまうことに触れられています。そうして大聖人は富木常忍を「今常忍上人は持経じきょうを忘わする。日本第一にほんだいいちの好よく忘わするる仁ひとか」と揶揄を交えて語られています。
つづいて大聖人は、法華経の教説から末代まつだいの凡夫ぼんぶ(末法まっぽう時代に生かされる仏教的に浅識で愚鈍である人)が、釈尊から大切な法門を授けられているにも関わらず、大いに忘れ去っていることを指摘されています。それは、法華経を批難し、正気を失って法華経以外の教えに魅了されているということです。これを大聖人は、親に背いて敵に従い、刀を持って自分を切るようなことであると、述べられています。
富木常忍もまた、末代の凡夫の身でありながらも、懸命に法華経修行に努め、今まで邸宅にあった母のために孝養を尽くされていました。このような富木常忍が母との離別の悲しみの中、ご遺骨を大聖人の庵室の御宝前に安置し、五体を投地し合掌するお姿を大聖人が目の当たりにされたとき、彼の心からの法華経信仰と母への孝養をこの上なく讃えられているのです。
法華経を信しんずる人はさいわいを万里ばんりの外ほかよりあつむべし
『重須殿おもんすどの女房にょうぼう御返事ごへんじ』
日蓮大聖人が示されているお題目修行は、私たちの心をよく観察することを意味しています。 このお題目修行により、私たちの心の中に十個の世界が存在していることを覚さとらせる目的があります。 この十個の世界とは、地獄じごく・餓鬼がき・畜生ちくしょう・修羅しゅら・人にん・天てん・声聞しょうもん・縁覚えんがく・菩薩ぼさつ・仏ぶつです。 しかし、私たちは心の中の十個の世界を容易に観察することができません。そこで大聖人は、法華経の如来にょらい寿量品じゅりょうほんの教えを根拠にされて、お題目修行の最重要性を説かれています。 それが、法華経のお経文を明鏡めいきょうとして受け止めて、そこに己の心を照らし出させることです。 つまり、法華経のお題目修行の基本にはお経文が絶対不可欠で、法華経のお経文を通して、私たちの心と身体と目の前の現実をよく観察して、私たちの心の中にある十個の世界の存在を覚知しようとするのです。これがお題目修行の本質です。
ところで、身延山の日蓮大聖人のもとに新年の御供養として、十字むしもち(むし餅・饅頭の異称)一〇〇枚と果物一籠が届けられます。 これらは、大聖人の信者のお一人である重須殿(石河いしかわ新兵衛しんひょうえ入道)の妻による御供養です。
そこで大聖人は、正月の御供養への感謝の言葉をお手紙(弘安こうあん四年〈一二八一〉正月五日付)にて伝えられます。このお手紙にも、私たちの心の中に地獄や仏の世界が存在していることをお示しになっています。
大聖人はお手紙の冒頭に、正月元日を大切にする人は、人徳を積み、人々から親しみを持たれることを述べられ、御供養の品物の感謝を示されています。
ついで大聖人は、地獄と仏の世界がどちらも私たちの身体の中に存在しているとお説きになります。 そして、心の中に地獄はあっても仏の世界が存在していることは信じがたいという問いを設けて、新年を迎えて法華経に御供養を捧げる心こそ、仏の世界が存在している由縁だと明かし、彼女の法華経信仰を尊ばれているのです。
いのちと申もうす物ものは一切いっさいの財たからの中なかに第一だいいちの財たからなり
『事じ理り供養くよう御書ごしょ』
文永ぶんえい十年(一二七三)四月二十五日、日蓮大聖人は佐渡さど流謫るたく中『如来にょらい滅後めつご五五百歳始ごごひゃくさいし観心かんじん本尊ほんぞん抄しょう』を著あらわされています。そこには、大聖人独自の「観心かんじんの法門ほうもん」が説かれています。観心とは仏教の実践的な修行を意味し、自己の心をよく観察するための修行です。大聖人が示される観心の法門とは、釈尊による救いの教えであって、その結論は、法華経の教説を明鏡めいきょうとして受け止めて、そこに己おのれの心を照らし出させることです。つまり、法華経修行の基本には文字としての教え(経典)が不可欠で、私たちが法華経の教えに学び深く信仰するところに、私たちの心の有様が目の前に映し出されていくのです。
さて、建治けんじ二年(一二七六)身延山みのぶさんの大聖人のもとに白米一俵いっぴょう、里芋一俵ひとたわら、河海苔一籠ひとかごが届けられます。そこで大聖人は、これらの御供養に対する謝意を伝えるためにお手紙を送られます。
大聖人はお手紙にて、生きとし生けるものは衣食えじきによって「いのち」を育むことができているからこそ、おのずと生きとし生けるものの「いのち」もまた大切な財たからに他ならないことを述べられています。この「いのち」は、三千さんぜん大千世界だいせんせかいのあらゆる財物ざいもつをもってしても「いのち」に引き換わる代物はないのです。ついで、成仏の教えに触れながら、雪山せっせん童子どうじや薬王やくおう菩薩ぼさつ、さらに日本の聖徳太子や天智天皇の例を挙げて聖人せいじん・賢人けんじんだからこそできる身命しんみょうを捧げた供養と、私たち凡夫ができる「志ざし」をもった供養を説かれます。その供養とは「観心の法門」であり、今を生かされている私たちは、法華経の教えに学び、深く信仰することこそが神仏への供養であって、聖人賢人が行う供養と軌を一にすることができる、と述べられています。
最後に、法華経の教えに基づけば、世法せほう(私たちが生活を営む中での社会的な秩序)は私たちの心を映し出したそのものの姿であることから、届けられた白米はただの白米ではなく、命そのものの形であるとして、御供養を送られた檀越に深く感謝の心を捧げられるのです。
この土どの我等われら衆生しゅじょうは五百ごひゃく塵点劫じんでんごうより已来このかた教主きょうしゅ釈尊しゃくそんの愛子あいしなり
『法華ほっけ取要抄しゅようしょう』
日蓮大聖人が佐渡さど流謫るたくを許され、鎌倉に戻られたのは、文永ぶんえい十一年(一二七四)三月二十六日のことです。その翌月八日、侍所さむらいどころ平頼綱へいのよりつなに召喚されて、蒙古もうこ襲来しゅうらいの時期とその防衛策について質問されます。対して大聖人は、蒙古襲来の原因が日本中で邪法じゃほうの蔓延まんえんにある、とお答えになり、近々必ず蒙古が攻めてくることを警告されます。しかし、大聖人の意見は頼綱によって退けられることになります。その一ヶ月後、大聖人は鎌倉を離れ漂泊ひょうはくの思いを吐露とろしつつ、信者のひとり波木井はきい実長さねながに招かれて、甲斐国かいのくに身延みのぶに向かわれます。
身延山に到着後、佐渡在島中から所持されていたと思われる草案を浄書され、信者である富木とき常忍じょうにんに送られます。これが『法華取要抄』と題する御妙判ごみょうはんです(文永十一年五月二十四日・諸説有り)。
本書は、二つに大別することができます。前半は法華経の教えの超勝性ちょうしょうせいを明らかにされています。法華経本門ほんもん如来にょらい寿量品じゅりょうほんにて顕あらわれる久遠くおんの釈尊と衆生しゅじょう(生きとし生けるすべての存在)が、既に本当の親と子のような強い縁で結ばれていることを説かれています。
後半は、問答形式でお言葉が進められています。そこには、法華経が末法まっぽうの衆生のために説かれて、中でも法華経の教えを確実に実践されてこられた大聖人御自身のためであると、信仰的自負が語られています。そして、如来にょらい神力品じんりきほんで久遠の釈尊が本化ほんげ地涌じゆの上行じょうぎょう菩薩ぼさつに教えの要法ようぼうを委嘱されていることから、末法における法華経修行の要点が、久遠の釈尊が説かれている「本門の本尊ほんぞん」と「本門の戒壇かいだん」と「題目だいもくの五字ごじ」の三つの秘法ひほう(人智じんちを越えた教え)に帰結することを明らかにされています。
最後に、これまでの正嘉しょうか元年の大地震や文永元年大彗星をはじめとする未曽有の天災などは、法華経が流布されるべき前兆であって、法華経の予見よけん通りに上行菩薩等がこの世に必ず出現されて、本門の三つの秘法を広く伝えられることを断言されているのです。
南無妙法蓮華経と申もうさば必かならず守護しゅごし給たまうべし
『祈祷鈔きとうしょう』
文永ぶんえい八年(一二七一)九月十二日、日蓮大聖人は、侍所さむらいどころ平頼綱へいのよりつなの指示により不当に逮捕され、龍口たつのくちにて斬首されそうになられます。この危機を免れた大聖人は、相模国さがみのくに依智えち(神奈川県厚木市)の本間氏に預けられ、佐渡に配流はいるされます。十月十日、依智を出発して、同月二十八日に佐渡さどの松ヶ崎まつがさきに到着します。そして、塚原つかはらにある広さ一間四面ほどのお堂に住まわされます。
このお堂にて大聖人は、これまでの法華経の弘通とそれに伴う迫害に対する弟子たちの疑念をはらうために『開目抄かいもくしょう』を著されるのです。『開目抄』では、法華経が他の経典よりも優れている理由が論じられています。それは、法華経に説かれる二乗にじょう作仏さぶつと久遠くおん実成じつじょう(釈尊が永遠に常住じょうじゅうして衆生しゅじょうを導かれている教え)の教えの尊さが由来となるものです。
ここで二乗作仏について、少しく尋ねてみることにします。二乗作仏とは、二乗(声聞しょうもんと縁覚えんがく)の修行者も法華経によって成仏が約束されることを意味しています。かつて声聞と縁覚は、自身の解脱げだつや悟りを求める修行者であって、人々を導く修行には消極的でした。そのために、従来の経典では成仏が達成されないとみなされてきました。しかし、釈尊が法華経の教えを説かれたとき、成仏が適わない二乗もまた、成仏が約束されることを知り、この上ない悦びを感じているのです。ちなみに、法華経の提婆達多品だいばだったほん第十二では、竜女りゅうにょと悪人あくにんが法華経によって成仏されている教えが説かれています。
この意味において、法華経が誰しもを仏の世界へと導く教えであることを知り、釈尊が際限なく救いの言葉を法華経の修行者に授けられていることを感得できるのです。そして、法華経によって救われた二乗をはじめとする修行者や有縁の人々、さらに諸天善神もまた、今まさに法華経の修行者を見守り、背中を強く押してくださっていることが、大いに信じられるのです。
南無妙法蓮華経と唱となえたてまつるを信心しんじんと申もうし候そうろうなり
『妙一尼みょういちあま御前ごぜん御返事ごへんじ』
身延山みのぶさんの日蓮大聖人が、鎌倉に居住する女性信者の妙一尼みょういちあま宛てに信心しんじんの心得こころえを説かれたお手紙(弘安こうあん三年〈一二八〇〉五月十八日付)が伝えられています。
本文は短い文章です。そこで、私なりに言葉を補いつつ、つぎの通りに現代語訳にしました。
【現代語訳】
「そもそも信心と申しますのは、つぎに示しますこれらの譬たとえの他にはありません。
妻が夫を惜しむように、夫が妻のために命を捧げるように、母と子がお互いに慕いあうように、私たちは法華経ほけきょうやお釈迦様しゃかさま・多宝たほう如来にょらい・十方じっぽう分身ふんじん諸仏しょぶつ・菩薩ぼさつ・諸天しょてん善神ぜんじんの方々を貴び信仰して、南無妙法蓮華経とお唱えすることを信心と申し上げるのです。
そればかりではありません。法華経の方便品ほうべんぽん第二には、お釈迦様が『ただ真っ直ぐに、今までの私の導き方を廃して、今から無上むじょうなる道〈法華経〉を明かしましょう』と説かれ、警喩ひゆ品第三にはお釈迦様が舎利弗しゃりほつに対して『法華経以外の教えを一偈いちげとして受けないのであるならば、その人のために法華経を説くがよい』と説かれています。あえてこの教えを譬えるならば、女性が鏡を捨てることがないように、武士である男が刀を腰に差すようなものです。
決して、法華経への信心を忘れることがないように、あなた様の心に深く刻んでくださいませ。
五月十八日 日蓮花押 妙一尼御前御返事」
本文に引用されている方便品の教えには、お釈迦様が法華経をお説きなるお姿が描かれています。そして、譬喩品の教えには、私たちの法華経の教えを聴聞していく態度が説かれています。
こうして、本書では、私たち修行者の信心のあり方を誡いましめられています。
それ佛道ぶつどうに入いる根本こんぽんは信しんをもって本もととす
『法華題目鈔ほっけだいもくしょう』
文応ぶんおう元年(一二六〇)七月十六日、鎌倉幕府の得宗被官とくそうひかん宿屋入道やどやにゅうどうを介して『立正安国論りっしょうあんこくろん』を前執権さきのしっけん北条ほうじょう時頼ときよりに奏進そうしんされます。
しかし、日本国内で立て続けに起こる自然災害の原因が、お釈迦様の正しい教えを謗そしっていることであると突き止められた大聖人の法華経への信仰を勧める訴えは、時の為政者に黙殺もくさつされるに留まらず、邪教徒じゃきょうとたちを憤激ふんげきさせることになります。次第に大聖人と邪教徒たちとの法論が交わされ、大聖人は彼らを弁駁べんばくされます。その結果、かえって邪教徒たちが抱く大聖人に対しての敵意が激しくなり、鎌倉の大聖人の御草庵を襲撃します。ついには身分のある人々を非難したとして大聖人を不当に訴え、弘長こうちょう元年(一二六一)五月十二日、幕府は大聖人を逮捕して、伊豆伊東に流罪るざいとしたのです。この流罪が許されたのは弘長三年(一二六三)二月二十二日のことです。その後大聖人は、病に苦しむ故郷の母のもとへ訪れ、病気平癒を祈られています。
こうして、法華経の信仰の大切さを再び故郷の地で説かれていくのです。
一方、地頭東条とうじょう景信かげのぶにとって安房あわに帰ってきた大聖人の活動は黙認できません。そのため、自身の公的権力も相あい俟まって暴力行為も辞せずして、ついに文永ぶんえい元年(一二六四)十一月十一日、東条松原の大路おおじにて景信をはじめ多数のものたちが、大聖人一行に襲いかかり、弟子の鏡忍房きょうにんぼうと信者である工藤くどう吉隆よしたかが殉死、他二名の重傷、加えて大聖人御自身も額に傷、左手を打ち折られたのです。
『立正安国論』を奏進後、約四年の間に見舞われた迫害は、大聖人に大きな影響を与えます。それは、大聖人が法華経の行者ぎょうじゃであると強く自覚されることに象徴されます。
かくて熱心な女性信徒に女人にょにん成仏じょうぶつについて説かれている文永三年(一二六六)一月六日付のお手紙において、仏道修行の根幹を「信しん」の一字をもって語られる大聖人のお言葉を目の当たりにしたとき、大聖人の法華経信仰の篤い志を感じずにはいられません。
譬たとえば米こめは油あぶらの如ごとく命いのちは灯ともしびの如ごとし 法華経ほけきょうは灯ともしびの如ごとく行者ぎょうじゃは油あぶらの如ごとし
『曽谷殿そやどの御書ごしょ(焼米抄やきごめしょう)』
身延山みのぶさんの日蓮にちれん大聖人だいしょうにんのもとへ、諸精霊への仏事ぶつじ供養くようのお布施ふせとして焼米やきごめ二俵にひょうが届とどけられます。これは曽谷そや道崇どうそうによるものです。
本書は、大聖人が焼米二俵を受け取り、曽谷道崇へ感謝の意を伝えるために弘安こうあん二年(一二七九)八月十七日付で送信されたお手紙と位置づけられています。
冒頭には「米は少すこしと思食おぼしめし候そうらへども、人ひとの寿命じゅみようを継つなぐ物ものにて候そうろう」とて、僅かなお米であっても、人の生命いのちをつないでくれる大切な食べ物であると示して、檀那だんな(僧侶そうりょに施ほどこす人)を油あぶら、法華経ほけきょうの行者ぎょうじゃを燈ともしびに擬なぞらえて、檀那の助けがあってこそ、法華経の行者は、生命をつなぎ法華経のお題目だいもくを世間に布教ふきょうすることができることを記しています。
さて本書では、お釈迦しゃか様さまの御生涯で説かれる教えの中で法華経こそが最も尊い教えであるということを『涅槃経ねはんぎょう』の「五味ごみ」の法門を用いて説かれます。五味とは、お釈迦様の説法せっぽうを五つの順序じゅんじょ次第しだいに分け、それを牛乳ぎゅうにゆうが熟成じゅくせいしていく過程かていでの五段階ごだんかいの味わいに擬えている教おしえです。この五段階とは①乳味にゅうみ(しぼりたての牛乳の味)、②酪味らくみ(精製した牛乳の味)、③生蘇味しょうそみ(酪を精製した味)、④熟蘇味じゅくそみ(生蘇を精製した味)、⑤醍醐味だいごみ(乳製品における極上の味)です。
そして本書には、法華経の教えを醍醐味に位置づけながらも、妙楽みょうらく大師だいし湛然たんねんの言葉を根拠に「法華経は五味の主しゅの如ごとし」と記されています。この言葉は、法華経に如来にょらい寿量じゅりょう品ほんが説かれているからこそ、法華経が五味の範疇に留まることなく、お釈迦様のすべての教えを活かすほどの大切な教えであることを意味しています。
ちなみに、御開祖常不軽院じょうふきょういん日真にちしん大和尚だいかじょうの大永だいえい二年(一五二二)の『本述ほんじゃく図形ずけい』には「五味主法門本迹ほんじゃく妙法みょうほう下種げしゅ迷謬めいみょう之の故ゆえ之これを図形ずけいす」と述べられ、日真大和尚における大聖人の教えを探求するための大切な要点であることが知られています。
在世ざいせの月つきは今いまも月つき 在世ざいせの花はなは今いまも花はな むかしの功徳くどくは今いまの功徳くどくなり
『南條殿なんじょうどの御返事ごへんじ』
身延山の日蓮大聖人のもとに南条七郎次郎時光より、御供養の品物として白麦しろむぎ一俵いっぴょう・河のり五帖ごじょうが届けられます。
そこで大聖人は供養の品物の感謝を述べるために手紙を認められます(建治けんじ元年〈一二七五〉七月二日付※建治三年説有り)。
まず大聖人は、天台てんだい大師だいしの『法華ほっけ文句もんぐ』を根拠に阿那律あなりつ尊者そんじゃと迦葉かしょう尊者そんじゃについてお説きになります。阿那律尊者は、幼い頃の名前を如意にょいといい、心の中で宝珠のような尊い思いを抱かれるお方です。その理由は、過去世で飢えに苦しむ国で聖者に稗飯ひえのはんの供養を捧げていたからです。また迦葉尊者の場合は、出家以前には六〇もの倉を所有して、その倉の中には金が一四〇石ごくずつ入れておく程の富者です。その理由は、過去世で飢饉に見舞われたとき麦飯むぎのはん一杯を聖者に捧げたからです。こうした功徳を積んでこられたからこそ、今生こんじょうで釈尊のお弟子となって、法華経にて光明こうみょう如来にょらいという仏様になることが約束されています。
こうした阿那律尊者と迦葉尊者の功徳を大聖人は、時光からの白麦の御供養とを重ね合わせて、御供養を讃えられます。それは、釈尊御在世中の月と今この時の月が同じであるように、また当時の花と今この時の花が同じであるように、昔の供養の功徳と今の供養の功徳には、全く違いがないのです。ですから、大聖人は時光が届けてくれた白麦を黄金、さらには法華経の文字であると尊び、加えて法華経の守護神である十羅刹女じゅうらせつにょがこの白麦を見たときには、仏になるための種に思われるだろう、と時光の御供養を称讃されるのです。
最後に近年の蒙古襲来のことに触れ、時光の身を心配するなど、大聖人は時光を気遣われるお言葉で本文が締め括られます。
この経きょうを持たもつ人々ひとびとは他人たにんなれども同おなじ霊山りょうぜんへまいりあわせ給たまうなり
『上野殿うえのどの御返事ごへんじ』
日蓮大聖人が佐渡さど流謫るたくを許され、再び鎌倉に戻られたのは、文永ぶんえい十一年(一二七四)三月二十六日のことです。その翌月、大聖人は幕府の侍所さむらいどころ平頼綱へいのよりつなに召喚されて、蒙古もうこ襲来しゅうらいの時期とその防衛策について質問されます。対して大聖人は、仏教経典に依りながら蒙古襲来の原因が日本中で邪法じゃほうの蔓延まんえんにあるため、とお答えになります。しかし、軍事的な問題として解決したい頼綱は、大聖人の意見を退けるのです。召喚の約一ヶ月後、大聖人は鎌倉を離れ漂泊ひょうはくの思いを吐露とろしつつ、信者のひとり波木井はきい実長さねながに招かれ、甲斐国かいのくに身延みのぶに向かいます。当初身延には一時の滞在とお考えになられていましたが、実長のもてなしもあってか、その後数え九ヶ年にも及ぶ生活を身延の山奥で過ごされることになります。
次第に身延山の大聖人のもとには、教えを請うために人々が訪れるのです。南条なんじょう七郎しちろう次郎じろう時光ときみつもそのお一人です。大聖人は時光は駿河国するがこく富士郡ふじごおり上野郷うえのごうを統括していたことから「上野殿うえのどの」と呼称されています。時光の父は南条兵衛ひょうえ七郎しちろうといい、大聖人とは鎌倉で活動されていた頃から交流があります。しかし文永二年(一二六五)三月八日、兵衛七郎は病に冒され臨終を迎えます。訃報に接した大聖人は、駿河国へ向かい、彼の墓に詣でたことが知られています。その折、大聖人は幼い時光と対面していることが考えられます。
おおよそ十年の歳月が過ぎて、身延山にて大聖人は立派な若武者として成長した時光と法華経信仰を共有する心の交流を深められていきます。さらに時光宛のお手紙(文永十一年十一月十一日付)には、法華経を信仰していた父は安らかな臨終を迎えて、久遠の釈尊がいらっしゃる霊山りょうぜん浄土じょうどへと旅立たれていることをお説きになります。法華経を厚く信仰する人々は他人であっても、久遠釈尊の霊山浄土で一緒になります。それゆえ、時光もまた法華経信仰を持たれていることから、亡き父と同じ霊山浄土で再会しないはずがないことを教示せられています。そして、大聖人は時光と父との死別の悲しみを慮おもんぱかって涙を流されるのです。
国くにに衰微すいびなく土どに破壊はえなくんば身みはこれ安全あんぜんにして心こころはこれ禅定ぜんじょうならん
『立正安国論りっしょうあんこくろん』
鎌倉を中心に発生した自然災害の罹災者と悲嘆ひたんの念を共有された日蓮大聖人は、仏教者として自然災害の原因とその解決策を究明するために再び全ての仏教経典を閲覧されます。その結果、自然災害は謗法ほうぼう(お釈迦様の正しい教えを謗そしっていること)が起因となって悪法が日本国中に充満し、人々の心が邪悪に染まっていることが原因であると突き止められます。ついに、文応元年(一二六〇)七月十六日、鎌倉幕府の得宗被官とくそうひかん宿屋入道やどやにゅうどうを介して『立正安国論』を前執権さきのしっけん北条ほうじょう時頼ときよりに奏進そうしんされるのです。
『立正安国論』は、大聖人が一人の仏教者という立場から自然災害の原因を「勘かんがえる」書です。加えて幕府の実力者に向けた諫言かんげんの建白書けんぱくしょです。つまり『立正安国論』の奏進は、大聖人が法華経の修行者である意志を公おおやけに示す意味を有しています。そして、この先の大聖人の御生涯を決定づける一転機であるということは言うまでもありません。
さて『立正安国論』の本文は「旅客りょかく来きたりて嘆なげいて曰いわく」とて、近ごろ天変地異、飢饉や疫病が発生して牛馬が随所で死に絶え、骸骨が路上に満ちあふれ、人々が死にゆく災難を目の当たりにした「旅客」の嘆きからはじまります。そこから「主人」との対話が九つの問答形式で交わされていきます。この対話では、立て続けに起こる災難の由来をはじめ、災難の対治や国内の謗法の事実などを明確化めいかくかして、法華経の教えこそが私たちの信仰するべき教えであることに帰結します。
本文の終盤には、旅客自身が仏様を謗り本当の教えを蔑ないがしろにしていた罪に気づきます。ついに主人がこの旅客に向けた最後の言葉には、国土の安寧を願うならば、謗法の対治と法華経に帰依することで、この国土が本当の仏国土ぶっこくどとなって、一人ひとりの心が必ず安らかになることを諭す旨が綴られています。
こうして旅客は、自分一人だけではなく他の人々の誤った信仰を正すべきと思われて、本文が締め括られています。
ほととぎすにつけての御おんひと一こえ声 ありがたし ありがたし
『窪尼くぼあま御前ごぜん御返事ごへんじ』
身延山の日蓮大聖人のもとに、粽ちまき五束・笋たけのこ十本・酒の三つの品物が届けられました。これは、女性信者のおひとり窪尼くぼあまによる品物です。そこで大聖人は、お礼のお手紙(五月三日付)を返されます(ここでは執筆の系年を弘安三年〈一二八〇〉と考えます)。
大聖人はお手紙の冒頭に御供養の品物を確かに受領したことを述べられます。御供養の品物が届けられたのは、梅雨の時期で夏の日が続いている頃です。加えて、身延山を訪れる人はありません。この日々の中で大聖人は、窪尼からの音信をホトトギスの一声に擬えて、感謝のお言葉を綴られています。
ついで大聖人は、窪尼が居住する駿河国するがのくに富土郡ふじのごうり久保村くぼむら(現静岡県富士宮市)の近く熱原あつはらにて起きた事件について言及され、最後にそのような事件が身近で起きたにも関わらず、諸天善神の御加護のもと窪尼の法華経への信心が堅固であることを尊ばれています。
ところで、この事件を熱原法難と呼称しています。大聖人が身延山に入山して以降、お弟子の日興にっこう上人が駿河国を中心として活発的に大聖人の教えを弘められています。例えば当時の熱原滝泉寺りゅうせんじの住僧日秀にっしゅう・日弁にちべんなどの僧侶などが日興上人に誘いざなわれて、大聖人のお弟子となります。また農民百姓にも大聖人の教えが浸透して、地域に大聖人の門弟もんていが形成していきます。これに対して滝泉寺の上層部等が、大聖人の弟子となった人々の法華経信仰を止やめさせようと社会的に抑圧していく事態となります。ついに弘安二年(一二七九)九月から滝泉寺院主代いんじゅだい行智ぎょうちが同地の政所まんどころと結託して、日秀等を訴え、さらに関係の百姓二十名を逮捕するのです。その理由は、寺内及び田畑を荒し、作物を横領したというのです。
大聖人は現地に弟子を送り、陳状にて行智の非法を訴えます。しかし、事件が得宗領とくそうりょうで起きたためか、平頼綱へいのよりつなが鎌倉での審理に当たり、二十名の内三名を斬首に処したのです。
大聖人は、この一連の事件を御自身と門弟に対する弾圧と捉えられ、より一層堅固な法華経信仰に邁進されていかれます。
父母ふぼの恩おんの中なかに慈父じふをば天てんに譬たとえ悲母ひぼを大地だいちに譬たとえたり
『千日尼せんにちあま御前ごぜん御返事ごへんじ』
罪人として佐渡さどに流された日蓮大聖人は、文永八年(一二七一)十一月上旬より約五ヶ月間厳しい監視のもと、墓地の中にある死者を供養するための草堂そうどう(塚原つかはらの三昧堂さんまいどう)で過ごされています。この建物は、一間いっけん四面しめんほどの大きさで、雨漏りもひどく、壁は風を防ぐことはできません。その上、二度と大聖人が鎌倉へ帰ることができないように様々な謀はかりごとを企くわだてようとした人々もいます。
このような環境の中にも、大聖人の教えに心を動かされていく人々が現れることになります。例えば、国府入道こうにゅうどう夫妻と阿仏房あぶつぼう夫妻です。この両夫妻は、大聖人が流罪を許されて身延山にご入山以降、大聖人のもとを度々訪れ、親交を深められています。
さて、阿仏房の妻千日尼せんにちあま宛てに届けられたお手紙(弘安元年〈一二七八〉七月二十八日付)には、法華経の教えがお釈迦様の最高の教えであることを論じながら、法華経提婆達多品だいばだったほん第十二のお経文や伝教でんぎょう大師だいし最澄さいちょうのお言葉を根拠にして、女性の成仏は法華経の教えに限ることを教示されています。
大聖人は、尊い生命いのちを受け、法華経にめぐり会えていることを最上の悦びとされています。このご恩に感謝する生き方のひとつに父母ふぼなどへの報恩ほうおんがあります。その中でも、子を慈しむ父母ふぼを天と大地に擬なぞらえています。そして、その軽重けいちょうを付けることはできません。しかし、悲母への報恩の実践は難しいとされます。それは法華経以前の経典には、女性の成仏が許されることはなく、または方便として成仏や往生おうじょうを説いているために、本当の成仏の姿が説かれていないからです。
そのため大聖人は、法華経にこそ全く嘘偽りのない女性の成仏が明言されていることから、日本国のすべての女性に南無妙法蓮華経を唱えてもらうための願に立つことで、悲母への報恩を実践されているのです。
今いまの時ときは世よすでに上行じょうぎょう菩薩ぼさつ等とうの御出現ごしゅつげんの時尅じこくに相あい当あたれり
『下山しもやま御消息ごしょうそく』
身延山の日蓮大聖人は、弟子や檀越だんのつ方と共に法華経を読誦どくじゅし、彼らに法華経お題目の教えやその基礎である天台てんだい教学きょうがくなどを教授されています。さらには、大聖人の教えを請うために遠方より身延山に訪れる者もいれば、大聖人に関心を抱きながら教えを聞きに来る者もいます。因幡房いなばぼうもそのおひとりです。
因幡房は、大聖人が身延山に入られてから大聖人の教えに帰依きえされてお弟子となられます。そして、大聖人より日永にちえい(栄)というお名前を授与されています。
しかし、因幡房は大聖人の教えに帰依し、法華経の世界に導かれたことで、父下山しもやま兵庫ひょうご五郎ごろう光基みつもとより、𠮟責されてしまいます。
光基は熱心な念仏の信仰者で、阿弥陀堂を建立し、かつて因幡房に朝夕と『阿弥陀経』を読ませ、念仏修行を勤めさせるほどです。そのため、大聖人に帰依した因幡房が『阿弥陀経』を廃し、阿弥陀堂で法華経の自我偈を読誦するようになると、彼を叱責することになります。
大聖人は、因幡房から相談を受けたのち、因幡房に代わって、父光基宛てに陳弁の書(建治三年〈一二七七〉六月)を認したため、法華経への信仰を諭されます。
冒頭には、因幡房が身延山の大聖人の御庵室あんしつの後ろに隠れて、大聖人の教えを耳にしたことで法華経を信仰するに至った経緯が語られます。その因幡房が耳にされた大聖人の教えとは、仏様の教えを世の中に弘めるとき、必ず考えなければならない要点です。それは①仏教経典の内容と特徴を学ぶこと。②生きとし生けるすべての人々の仏教的理解能力を学ぶこと。③教えを弘める時代を学ぶこと。④教えを弘める場所を学ぶこと。⑤どのような信仰がこれまで伝わってきたかを学ぶこと、というのです。
さらに本書では、以上の要点をより詳しく論じることで、法華経の教えが末法まっぽうの時代にこそ最も大切である由縁を父光基に教示せられているのです。
天てん晴はれぬれば地ち明あきらかなり
『観心本尊抄かんじんほんぞんしょう』
文永ぶんえい十年(一二七三)四月二十五日、佐渡さど流謫中るたくちゅうの日蓮大聖人は、一谷いちのさわにおいて『如来にょらい滅後めつご五五百歳始ごごひゃくさいし観心本尊抄かんじんほんぞんしょう』(以後、『観心本尊抄』と略称)の執筆を完了されます。『観心本尊抄』には、法華経の具体的な実践が認したためられています。執筆完了の翌日、本書にお手紙(四月二十六日付)を添えて、下総しもふさ八幡庄やわたのしょう若宮わかみや(千葉県市川市)に住する富木とき常忍じょうにん宛てに送られます。
添えられたお手紙には「当身とうしんの大事だいじ」と、大聖人は記述されています。これは『観心本尊抄』が、大聖人御自身の一生の大事にほかならず、大聖人にとって最も大切な教えが記されていることが知られます。
私たちが法華経の教えを探求し、法華経の教えの中に生きて行く時、『観心本尊抄』では多くの難しい課題を提示され、これらの答えは簡潔に述べられています。しかし、その答えを法華経仰の稀薄な人々が目の当たりにすると、驚動きょうどうしてしまうため、大聖人は法華経信仰を真剣に持たもった修行者のみに『観心本尊抄』を読まれることを期待しています。
ところで、法華経修行の目的とは、私たちのいのちの有り様を観察することです。すなわち、私たちの心と身体と目の前の現実をよく観察することが、法華経修行の本質です。そして、私たちの心の中にも仏様の世界があることに気付くことを目標としています。
しかし、今の私たちは、仏様の存在や尊い教えを独善的に理解する、こうした行いを無自覚にしてしまいます。その原因は、私たちが己の心と身体と現実を観察するための手立てを忘れ去っているからです。
『観心本尊抄』では、私たちの心に仏様の世界があることや法華経修行の実践などを理論的にお説きになっています。
その結論は、法華経のお経文を明鏡めいきょうとして受け止めて、そこに己の心を照らし出させることです。つまり、法華経修行の基本にはお経文が不可々で、この「教え」に学び、深く信仰することを今の私たちは求められているのです。
一切いっさい衆生しゅじょうのためには釈迦佛しゃかぶつは主しゅなり師しなり親しんなり
『妙法みょうほう比丘尼びくに御返事ごへんじ』
身延山の日蓮大聖人のもとに、太布帷たふかたびらが届けられます。これは、大聖人の御信者のひとり妙法尼みょうほうあまが兄嫁からことづかった御供養の品物です。その際、大聖人は妙法尼の兄尾張次郎兵衛おはりじろうひょうえの死去を知らされます。
そこで大聖人は、妙法尼と兄嫁にお手紙(弘安元年〈一二七八〉九月六日付)をお返しになったと伝わります。
本文は、『付法蔵経ふほうぞうきょう』(仏様が御入滅後、仏法が弘く伝わる様相を説く経典)に登場する商那和修しょうなわしゅうについて記されます。ついで、大聖人がこれまで度々見舞われた法難迫害や佐渡での生活、身延山での衣食乏しい暮らしを回顧しつつ、送られた衣の御供養に深く感謝される言葉がつづられています。そして、大聖人が法華経の行者ぎょうじゃであることを説き明かし、最後に法華経の行者に出会うことの難しさと行者に供養する功徳は甚大であることを記しています。こうして亡き次郎兵衛を弔い、妙法尼と兄嫁の悲しみを慰められて、本文は結ばれています。
ところで前に掲げたお言葉は、法華経警喩品ひゆほん第三のお経文を拠り所としています。すなわち、お釈迦様こそが生きとし生けるすべての人々にとって、主人であり、師匠であり、親である、という教えです。
譬喩品には「三車さんしゃ火宅かたくの譬え」が説かれています。それは、お釈迦様と私たちを父と子に擬なぞらえて、お釈迦様の人々をお救いになるお姿が説かれています。ついで、お釈迦様の偉大さを具体的に明かします。そのお経文は、つぎの通りです。現代語訳で尋ねます。
「今この苦しみの世界は、私(お釈迦様)が所有しているところです。その世界の生きとし生ける全ての人々は悉ことごとく私の子どもたちです。しかも、この世界は多くの煩いや災難に満ちあふれています。ですが、私がそれらの人々を救い護ることができるのです」
このお経文から、お釈迦様と私たちの関係が決して断絶されることなく、強い絆で結ばれていることが拝察できるのです。
汝なんじ早はやく信仰しんこうの寸心すんしんを改あらためて速すみやかに実乗じつじょうの一善いちぜんに帰きせよ
『立正安国論りっしょうあんこくろん』
正嘉しょうか元年(一二五七)八月二十三日、鎌倉を中心に大地震が発生しました。鎌倉の寺社仏閣は全壊、山々は崩れ家屋も倒壊、甚大な被害がもたらされました。その上、文応ぶんおう元年(一二六〇)にかけて、鎌倉を中心に東国の地域は、暴風により各地の田畑が損壊、大雨洪水による水害が発生、飢饉が起こり、さらに疫病が蔓延するにいたります。
この時期の日蓮大聖人の動向は、詳つまびらかではありません。しかし、清澄寺せいちょうじを退出されて以降、鎌倉松葉谷まつばがやつにて草庵を結ばれ、ここを拠点に法華経信仰の流布るふに尽力されていることから、大聖人も叙上の自然災害に被災ひさいし、多くの罹災者りさいしゃと苦しみを共有していることが十分に考えられます。そして、大聖人は多くの人々の死を目の当たりにします。
こうして、罹災者と悲嘆ひたんの念を共有し、仏教者として災害の発生原因と解決策を解明するため、再び全ての仏教経典の内容を探求されます。その結果、自然災害は、お釈迦様の法華経を謗そしっていることが起因となって、悪法が国中に充満し、人々の心が邪悪に染まっていることが原因であると突き止めます。
ついに、この世界に嘘偽りのない仏国土ぶっこくどを築くために、文応元年(一二六〇)七月十六日、大聖人は得宗被官とくそうひかん宿屋入道やどやにゅうどうを介して『立正安国論』を前執権さきのしっけん北条ほうじょう時頼ときよりに手渡されるのです。つまり、『立正安国論』は、一人の僧侶の立場から災害の原因を「勘かんがえる」書であって、幕府の実力者に対して諫言かんげんの建白書けんぱくしょであることが知られます。
しかし、大聖人が国の安寧あんねいを祈るために執筆された『立正安国論』は、黙殺もくさつされるに留まらず、大聖人は、却かえって幕府を批判した罪に問われてしまい、その後、度重なる法難迫害に見舞われることになります。
この意味において『立正安国論』の上呈じょうていは、大聖人の全生涯を貫く法華経信仰の核であって、大聖人が法華経の行者にならんがための覚悟を私たちは信受することができるのです。
南無妙法蓮華経とばかり唱となえて佛ほとけになるべき事こともっとも大切たいせつなり
『日女御前にちにょごぜん御返事ごへんじ』
身延山の日蓮大聖人のもとに鵞目がもく五貫ごかん、白米はくまい一駄いちだ、果子かしが、御本尊ほんぞんの供養のために送られます。これらのすべては、日女御前にちにょごぜんによる品物です。そこで大聖人は供養の品物に対してお礼の言葉を認したためたお手紙(建治けんじ三年〈一二七七〉八月二十三日付)を返されます。
ところで、日女御前の素性は、確かな根拠がある訳ではないため、詳細には分かりません。しかし、他のお手紙から知られているように、日女御前の供養の品物が他の檀越だんのつと比べると多額であることから、経済的にも自立し、社会的地位も高いことが考えられています。また、日女御前宛てのお手紙の内容からみて、法華経への信仰も深く、仏教教義の理解も十分に持ち合わせていると思われます。
さて、本文には御供物へのお礼の言葉につづいて、御本尊の基本的な様相について語られ、御本尊への御供養の広大さを説いています。そして、お題目への信心修行しんじんしゅぎょうの肝要かんようを書き示しています。つまり本文には、御本尊に関する内容とお題目修行に関する内容の二つに大別することができます。
大聖人がお示しになる御本尊は「本門ほんもんの本尊」です。これは、久遠実成くおんじつじょうのお釈迦様を意味し、今もなお私たちに救いの手を差し伸べてくださっている尊い仏様です。
まず本文には、お釈迦様在世中は、本門八品はっぽん(涌出品ゆじゅっぽん第十五~嘱累品ぞくるいほん第二十二)にて本門の御本尊が顕現けんげんされたことについて書かれています。御入滅にゅうめつ後は、二千年が過ぎた末法まっぽうの時代に入り、本門の御本尊が大聖人によって、闡明化せんめいかされたことが記されています。
ついで、御本尊を供養することの功徳は、大いなるものであることが示されます。
そして、仏になれるかどうかは、お題目を唱える修行こそが大切であり、それは修行者の法華経への信心が、厚いか薄いかに依るものと述べられているのです。
一乗いちじょうの羽はねをたのみて寂光じゃっこうの空そらをもかけりぬべし
『盂蘭盆うらぼん御書ごしょ』
身延山の日蓮大聖人は、弟子のひとり治部房日位じぶぼうにちいの祖母より供養の品物が届けられた際に盂蘭盆うらぼんについて尋ねられたため、供養の品物を仏前にお供えした旨と盂蘭盆について説明されたお手紙(弘安こうあん三年〈一二八〇〉七月十三日付)をお返しになります。
盂蘭盆の由来は、お釈迦様の弟子のおひとり目連尊者もくれんそんじゃが、各地から優れた僧侶を集められ、たくさんの食べ物を供養し布施をすることで、餓鬼道がきどうに堕ちている自身の母親を救い出される話から来ています。
そして、大聖人はこの盂蘭盆のお話を法華経の教えの観点から繙ひもとかれます。それは、法華経によって目連尊者の成仏が達成されるときに、彼の父母もまた成仏が果たされていくというものです。その根拠は、法華経の教えを聞いた声聞の弟子方(目連尊者などの二百五十もの戒律かいりつを守り続ける仏弟子方)が、お釈迦様から成仏の約束を授けられたとき、彼らの願いもまた達成されるという教えから明言されています。
ついで、目連尊者が法華経に心から帰依する行いは、父母だけに限られず「上かみ七代下しも七代、上無量生むりょうしょう下無量生の父母等存外ぞんがいに仏となり給う」とて、ご先祖様や子孫、さらにはその先のご先祖様や子孫など、所縁ゆかりあるすべての人々の成仏が適かなえられる功徳であることを説かれるのです。
最後に大聖人は日位の祖母に対して、孫を法華経の行者になさしめたことを尊びます。そして、日位の法華経修行の功徳により、祖母もまた法華経という翼に身を委ねることができ、お釈迦様が常住する法華経信仰の世界を翔けめぐることができる、と教示せられます。それは、日位の祖母だけに限られたことではなく、彼の父母、祖父母をはじめ、子孫たちにも及びます。
こうして大聖人は、日位の祖母を気遣われているのです。
日蓮にちれん一人いちにん南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経等とうと声こえもおしまず唱となうるなり
『報恩抄ほうおんじょう』
日蓮大聖人は、度重なる法難に見舞われることにより、御自身を「法華経ほけきょうの行者ぎょうじゃ」と自覚されています。法華経の行者とは、お釈迦様の尊い教えを研鑽され、それを現実の場面で実践することに重点を置く、仏教の体現者を意味しています。つまり、大聖人が身命を捧げ、法華経の教えを現実の場面で体現せられていることから、お釈迦様の尊い教えと現実社会とが、不即不離の深い関わりを持っていることが明瞭めいりょうに理解できるのです。
さて、大聖人は、建治けんじ二年(一二七六)七月二十一日に『報恩抄』と題する書を認したためられます。本書の末に「甲州こうしゅう波木井郷はきいのごう蓑歩嶽みのぶのたけより安房国あわのくに東条郡とうじょうのごおり清澄山きよすみさん浄顕房じょうけんぼう義城房ぎじょうぼうの本もとへ奉送ぶそうす(原漢文)」と記されていることから、かつて大聖人が清澄山きよすみさんで修学された頃の兄弟子である浄顕房じょうけんぼうと義浄房ぎじょうぼうのお二人を宛所としていることがわかります。また執筆の目的は、大聖人の清澄山での師道善房どうぜんぼうの死去の知らせに接し、師匠に対して報恩感謝のご回向を行うためです。また、本書を弟子の日向にこうに託し、清澄にある師の墓前にて読誦せしめていることが知られています。
道善房は、大聖人の清澄山での師匠ではありますが、念仏の信仰を基本としていたようです。そして、建長けんちょう五年(一二五三)大聖人が、清澄の僧侶等に対して御自身の法華経信仰を披瀝ひれきし、念仏信仰の誤りを強く説いたために、清澄寺の別当べっとうや地頭東条景信とうじょうかげのぶの影響をはばかって、大聖人を勘当かんどうすることになります。その後も、道善房は法華経信仰を基本とするには至りませんでした。
大聖人は、本書にて生涯法華経信仰を拒んだ道善房を厳しく批判しつつも、法華経の行者としてこれまでお題目の声を上げ、法華経信仰を持たれてきたお立場から、師道善房へ報恩を尽くし、惜しみなく法華経の功徳を捧げるのです。
これは巻末の「此この功徳は故道善房の聖霊しょうりょうの御身おんみにあつまるべし」というお言葉から拝受することができるのです。
法華経ほけきょう修行しゅぎょうの者ものの所住しょじゅうの処ところを浄土じょうどと思おもうべし
『守護国家論しゅごこっかろん』
建長けんちょう五年(一二五三)四月二十八日、清澄寺せいちょうじの僧侶等に対して、日蓮大聖人はご自身の法華経信仰を披瀝ひれきされます。しかし、法華経信仰の重要性を示すときは、念仏ねんぶつ信仰等の従来の仏教信仰の在り方を問い直し、信仰を改めることを強調しなければなりません。その結果、念仏信仰の立場を採用する清澄寺の別当べっとうや地頭じとう東条景信とうじょうかげのぶの影響もあって、大聖人は清澄寺からの勘当かんどうを受け、寺を退出されるのです。その後、法華経信仰を弘めるべくして大聖人は、鎌倉かまくらへ向かわれます。
ところで、建長六年(一二五四)から正元しょうげん元年(一二五九)までの大聖人の動向は定かではありません。しかし、鎌倉にて法華経弘通のさなか、正嘉しょうか元年(一二五七)から文応ぶんおう元年(一二六〇)にかけて、立て続けに起きた自然災害に被災ひさいしていることが考えられます。それは大聖人のお手紙から知られ、鎌倉幕府の記録が書かれた『吾妻鏡あづまかがみ』には具体的な被害の状況が述べられています。正嘉元年に大地震が発生し、鎌倉の寺社仏閣が全壊、山々は崩れ家屋も倒壊、甚大な被害がもたらされました。また、暴風により各地の田畑が損壊、大雨洪水による水害が発生、飢饉が起こり、さらに疫病が蔓延するのです。
大聖人は鬼哭啾々きこくしゅうしゅうたる鎌倉の惨状を目の当たりにされています。そして、仏教者として災害の発生原因と解決策の解明に努め、この世界に仏国土ぶっこくどを築くための方法を導こうとされます。その作業は、全ての仏教経典の内容を再度探求され、その結論を『守護国家論』と『立正安国論りっしょうあんこくろん』に認められるのです。
『守護国家論』では、明確な項目を立て、源空げんくうの『選択本願念仏集せんちゃくほんがんねんぶつしゅう』が人々を悪道に誘いいれ、国に災害をもたらす悪書であると指摘し、経典きょうてんや論疏ろんじょを丁寧に引用されて浄土教じょうどきょうを糾弾きゅうだんしています。また、大聖人の法華経を依拠いきょした国家や国土に対する理解が教示されています。そして、大聖人が示す浄土とは、久遠くおんのお釈迦様が常住じょうじゅうする浄土です。それは法華経の経典を尊ぶことで、たとえば園そのの中や林はやしの中、樹きの下もとでも、その処ところが法華経の道場どうじょうとなるのです。
我わが身みは藤ふじのごとくなれども法華経ほけきょうの松まつにかかりて妙覚みょうかくの山やまにものぼりなん
『盂蘭盆うらぼん御書ごしょ』
身延山の日蓮大聖人のもとに米一俵こめいっぴょう、焼米やきごめや瓜うり、茄子なす等の供養の品物が届けられます。これらの供養の品物は、大聖人の弟子のひとりである治部房日位じぶぼうにちいの祖母によるものです。またこの時に、盂蘭盆うらぼんについて尋ねられたため、大聖人は供養の品物を仏前にお供えした旨と盂蘭盆について説明されたお手紙をお返しになります。弘安こうあん三年(一二八〇)七月のことです。
大聖人はお手紙にて、御供物への感謝を述べたのち、盂蘭盆の由来を説明されます。そして、法華経信仰の尊さをお説きになり、最後に法華経によって導かれる祖母の功徳を明かされているのです。
盂蘭盆の由来は、お釈迦様の弟子のおひとり目連尊者もくれんそんじゃが、七月十五日各地から優れた僧侶を集め、たくさんの食べ物を供養し布施をすることにより、餓鬼道がきどうに堕ちて苦しむ母親を救い出す話から来ています。
大聖人は、盂蘭盆の由来を受けて、目連尊者の成仏についてお説きになります。目連尊者は、声聞しょうもんの弟子です。つまり、二百五十もの戒律かいりつを固く守るお弟子です。しかし、法華経が説き明かされるまでは、成仏ができないとされていました。ついに、法華経が説かれるとき、お釈迦様によって声聞の弟子も成仏する約束が授けられます。目連尊者は、戒律を捨て直ちに法華経に帰依きえしたところ、多摩羅跋栴檀香如来たまらばっせんだんこうにょらいという名号みょうごうが授けられています(法華経授記品じゅきほん第六)。そして、大聖人は声聞の弟子たちが成仏の約束を授かるとき、彼らの願いもまた達成される教え(法華経授学無学人記品じゅがくむがくにんきほん第九)を根拠にして、目連尊者が成仏するときには、彼の父母もまた成仏することをお説きになります。
この意味において、日位の祖母に対して、法華経信仰の功徳の必然性を藤と松の譬えをもって教示せられているのです。
釈迦佛しゃかぶつは霊山りょうぜんより御手みてをのべて御頂おんいだだきをなでさせ給たもうらん
『松野殿女房まつのどのにょうぼう御返事ごへんじ』
文永ぶんえい十一年(一二七四)三月八日、佐渡さど流謫中るたくちゅうの日蓮大聖人のもとに、鎌倉幕府より流罪るざいの赦免状しゃめんじょう(同年二月十四日付)が届けられます。こうして、佐渡流謫の生活が終焉しゅうえんを迎えます。三月十三日、大聖人は一谷いちのさわを出発して、同月二十六日に鎌倉へ帰着せられます。
その後、同年四月八日、大聖人は幕府の侍所さむらいどころに召喚され、平頼綱へいのよりつなと対面するのです。大聖人を召喚した目的は、蒙古もうこ襲来しゅうらいの時期とその防衛策を質問するためです。
これに対して大聖人は、仏教経典に依りながら蒙古襲来の原因を答えます。それは、日本中で邪法じゃほうが蔓延まんえんしているためであるというものです。すなわち、大聖人は襲来の原因が国内に問題があるとして捉えられ、その解決策こそがお題目だいもくの受持じゅじにほかならず、法華経信仰を再び勧めます。しかし、軍事的な課題として蒙古襲来を解決したい頼綱は、大聖人の意見を聞き入れることはありません。そればかりでなく、幕府の役人たちは異国調伏いこくちょうぶくの加持祈祷かじきとうを邪法の僧侶などに命じることを止めることはありませんでした。
大聖人は、自身の意見が再び聞き入れられなかったことを受けて、悲しみを感じます。召喚の約一ヶ月の後、ついに鎌倉を退出され漂泊ひょうはくの思いを吐露とろするのです。そして、信者のひとり波木井実長はきいさねながに招かれて、甲斐国かいのくに身延みのぶに辿り着きます。当初は身延にひとときの滞在とお考えになられていましたが、実長のもてなしもあって、八年四ヶ月に及ぶ生活を身延山で過ごされることになります。次第に弟子や檀越だんのつ方が身延山の大聖人を訪れたり、使者を遣わして供養の品物を届けたりと、交流が活発になります。前掲のお手紙(弘安二年〈一二七九〉六月)からも、身延山における檀越との交流を窺うことができます。
大聖人は松野六郎左衛門入道まつのろくろうざえもんにゅうどうの妻による麦や里芋などの供養の品物に対して、信仰的なお言葉を用いて、感謝の意を最大に述べられているのです。
法華経ほけきょうを持たもつ男女なんにょのすがたより外ほかには宝塔ほうとうなきなり
『阿佛房あぶつぼう御書ごしょ』
日蓮大聖人の教えに耳を傾け法華経信仰に誘われた阿仏房は、塚原の三昧堂に住まわれていた大聖人に対して、食料を届けるなどの御給仕をされていた檀越だんのつです。
前さきに掲げたおことばは、大聖人が阿仏房に対して供養の品々のお礼と、彼が持つ質問に答えるために認めたとされるお手紙の一節です。建治けんじ二年(一二七六)三月のことです。
本文にみられる阿仏房の質問とは、法華経見宝塔品けんほうとうほん第十一に説かれている、多宝如来たほうにょらいが登場せられ煌きらびやかな塔廟とうびょう(多宝塔たほうとう)が出現された意味は一体何か、というものです。本文の結論は、妙法蓮華経の五字がまさに宝塔そのものであり、修行者が法華経を信じお題目を唱える姿こそが宝塔である、というものです。さらに、お題目を唱えるその場所にこそ宝塔が立たたれるものだ、と記されています。
ところで、法華経に説かれている多宝塔について少しく尋ねてみましょう。
見宝塔品のはじめに、お釈迦様が法華経を説かれている所に、巨大な宝塔が空中に涌わき現れる様子が描かれています。そして、この見事な宝塔を説法の場にいる人々が目まの当あたりにされます。ついで、この宝塔の中に安置されている多宝如来が、大音声だいおんじょうを響き渡らせて妙法蓮華経の教えが真実であると讃えられて、多宝塔の扉が開かれるとき十方分身諸仏じっぽうふんじんしょぶつが来集らいしゅうされるのです。
大聖人も仰あおがれる天台大師てんだいだいし智顗ちぎ(五三八~五九七)は、多宝如来の宝塔涌現ゆげんはお釈迦様の説法の真実が証明されるとともに、のちの如来寿量品における永遠のいのちの教えが説とき顕あらわれることをうながすもの、と解釈されています(『法華文句ほっけもんぐ』巻第八下)。
これを受け大聖人は見宝塔品を「寿量品の遠序おんじょ」(『開目抄かいもくしょう』)と定められ、如来寿量品の教えが呼び起こされる起因きいんである、と理解されていることが窺うかがえます。
ただ法華経ほけきょうばかりこそ女人成佛にょにんじょうぶつ悲母ひもの恩おんを報ほうずる実まことの報恩経ほうおんきょうにては候そうらえ
『千日尼御前せんにちあまごぜん御返事ごへんじ』
罪人として佐渡さどに流された日蓮大聖人は、文永八年(一二七一)十一月上旬から翌九年(一二七二)四月上旬までの約五ヶ月間を墓地の中にある死者を供養するための草堂そうどう(塚原つかはらの三昧堂さんまいどう)で過ごされていたことが知られています。この建物の大きさは、一間四面ほどであって、屋根は朽ち破れて雨漏りもひどく、壁は風を防ぐことはなく、外の景色は道を塞ぐほどの雪ばかりです。その上、厳しい監視の目もあり、二度と大聖人が鎌倉へ帰ることができないように様々な謀はかりごとを企くわだて、迫害を加えようとした人々もいました。
この間、大聖人は佐渡在住の僧侶などの念仏者数百人との法論ほうろんを交わす出来事(塚原間答つかはらもんどう)がありました。文永九年正月のことです。佐渡の守護代しゅごだいである本間重連ほんましげつらが立会人となって法論が交わされ、大聖人がことごとく論破する結果となりました。
この塚原問答を契機として大聖人の教えに心を動かされていく人々が現れることになります。例えば、国府入道こうにゅうどう夫妻と阿仏房あぶつぼう夫妻です。この両夫妻は、大聖人が流罪を許されて身延山にご入山以降、大聖人のもとを度々訪れ、親交を深められています。
前さきに掲げた大聖人のお言葉は、阿仏房の妻千日尼せんにちあま宛てに届けられたお手紙の一節です。そこには、女性の成仏は法華経の教えに限ることを証あかし、千日尼の法華経信仰による成仏の保証が説かれています。
大聖人は、尊い生命いのちを受け、法華経にめぐり会えていることを最上の悦びとされています。このご恩に感謝する生き方のひとつに父母ふもへの報恩ほうおんがあります。そして、悲母ひもへの報恩とは、すべての女性の成仏であって、その唯一の方法が南無妙法蓮華経をすべての女性に唱えてもらうことです。これこそが大聖人の悲母への報恩の実践であり、そのことをこのお手紙から感得することができるのです。
釈迦佛しゃかぶつと法華経ほけきょうの文字もんじとはかわれども心こころは一ひとつなり
『四条金吾殿しじょうきんごどの御返事ごへんじ』
日蓮大聖人の篤信者とくしんしゃのお一人である四条金吾しじょうきんごは、佐渡さど流謫中るたくちゅうの大聖人のもとへ使つかいを遣つかわして種々しゅじゅの供養の品物を届けます。この供養の品々は、四条金吾の亡き母の三回忌追善供養ついぜんくようのためです。そこで大聖人は、遠路遥々佐渡の地まで供養の品々を届けてくれた四条金吾のお気持ちに深く感謝し、その行いを褒め讃える内容のお手紙をお返しになります。文永九年(一二七二)九月のことです。
お手紙のはじめに、中国の故事こじを引かれ、国王こくおうと人民じんみんの関係性を示されています。そこには、人民は必ず国王に付つき随したがうものだから、国王の行い次第では、社会生活の規矩きくが乱れて、人民の運命を左右してしまうものだと指摘されています。また、仏法ぶっぽうの流布るふも同じくして、国王が仏法を信仰しているか否かによって、仏法の興隆こうりゅうと衰微すいびがあると明言されています。そして、かつてインド、中国において国王が誤った教えを保護していた例を挙げて、今の日本国の人々の多くは、法華経を蔑ないがしろにし、邪法じゃほうを信仰しているため、今にも亡ほろびる危険があることを示されています。
ですから、大聖人は時ときの為政者いせいしゃたちの誤った仏教信仰を呵責かしゃくしていましたが、幕府からの罪科ざいかにより、罪人として佐渡に流されてしまいます。しかし、四条金吾は佐渡の大聖人のもとに供養の品々を届けられます。この行いを大聖人は、無数の仏を供養する功徳より、遙かに勝まさると讃えられるのです。
ついで私たちが法華経のお経文を拝読するときには、お釈迦様と直接お会いしていると思うように、と教示せられ、法華経は生身しょうじん(人々を救うために現す肉身のこと)のお釈迦様であることを説き明かしています。それは、お釈迦様の御声みこえ(梵音声ぼんのんじょう)が、そのまま法華経の文字となって顕あらわれているためだと大聖人は述べられています。
最後に亡き母への追善供養は、お釈迦様も御存知のはずで、母へのこの上ない孝養こうようのであると称讃されています。
衆生しゅじょうのこころけがるれば土つちもけがれ心こころ清きよければ土つちも清きよし
『一生成佛鈔いっしょうじょうぶつしょう』
日蓮大聖人は、建長けんちょう五年(一二五三)の立教開宗りっきょうかいしゅう以降清澄寺せいちょうじを退出し、当時幕府が置かれていた鎌倉にて法華経信仰の大切さを人々に弘めていきます。その中、建長七年に篤信者である富木常忍ときじょうにんに対して唱題成仏しょうだいじょうぶつについて教示せられたのが『一生成佛鈔』であるといわれています。
その本文には、妙法蓮華経の五文字が法華経の極めて大切な真理であって、この五文字を唱えることで、一生の間で成仏ができることを記しています。ついで、お題目を唱える心得を明かし、お題目の修行を勧めています。このとき「衆生しゅじょうのこころけがるれば…」と、前さきに掲げたお言葉が述べられています。
すなわち本文中には、衆生(全ての生けるもの)の心の善し悪しによって、今を生かされる地上は、浄土じょうど(仏の国土)とも穢土えど(汚れた国土)ともなる、というのです。
ところで、前掲のお言葉は、あるお経文を要約して引用した文です。またこの前文には「諸仏しょぶつの解脱げだつを衆生心行しんぎょうに求もとめば、衆生即菩提ぼだいなり生死しょうじ即涅槃ねはんなり」のお経文を同じく引用されています。これらのお経文は、どちらも浄名経じょうみょうきょうという経典が典拠となっています。
浄名経とは、鳩摩羅什くまらじゅう訳『維摩詰所説経ゆいまきつしょせつきょう』のことをいい、通称『維摩経ゆいまぎょう』と呼ばれています。昔より、法華経についで広く世間に親しまれてきた経典です。
維摩経の特徴は、お釈迦様やその仏弟子方が主人公として登場されるのではなく、維摩詰という在家者を中心に物語が展開していることです。そして、維摩詰と仏弟子方との対話を通して「不二ふに」の教えが説かれ、大乗仏教への信仰を明らかにしています。
この維摩経に説かれる不二の教えは、偏りがちな考え方を離れることです。つまり、二者択一を離れ、対立する両方を常に考えつつ、自身の言動を省みる教えなのです。
厄やくの年とし災難さいなんを払はらわん秘法ひほうには法華経ほけきょうに過すぎず
『太田左衛門尉おおたさえもんのじょう御返事ごへんじ』
『太田左衛門尉おおたさえもんのじょう御返事ごへんじ』と題するこのお手紙は、弘安元年(一二七八)四月、大聖人が、篤信者の一人である太田乗明おおたじょうみょうに宛てられた書と位置づけられています。
このお手紙の冒頭で、太田乗明より種々のお布施を確かに受け取った旨むねを報告します。そして、五十七歳の厄年やくどしにあたり暫しばらく病により身心の苦労に悩んでいる太田乗明が、この災いを除きたいという願いに答えていく展開となっていきます。
本文は、病と厄年の因縁いんねんを明かし、方便品ほうべんぽんと寿量品じゅりょうほんを書写しょしゃし、これをお守りとして肌身離さず持つことを指示します。ついで、法華経は全ての仏教経典の中で最も優れているから、諸仏諸尊しょぶつしょそんのこの上ない御守護が受けられると説きます。ゆえに、このお手紙の末には、法華経こそが厄の災いを払うことができる秘法ひほうであると書かれています。
厄の年齢は、時代によって様々あるように思われます。鎌倉時代には五十七歳を厄年としていたかもしれません。
ところで、大聖人の御妙判ごみょうはんを繙ひもとくとき、日眼女にちげんにょという女性信者が釈尊しゃくそんの木像もくぞうを造立ぞうりゅうしたことを褒め称える時に、大聖人は厄について触れられています。ここで厄を人の関節、家の垣根などと譬たとえています。そうして、「勇ましい兵士に家を守らせれば盗人を捕え、関節の病気を治療すれば寿命は長くもなります」(『日眼女にちげんにょ釈迦仏供養事しゃかむにぶつくようじ』・現代語訳)とて、日眼女が釈尊の木造を造立した功徳により、諸仏諸尊からの御守護を必ず受けることが説かれています。文末には、「今のあなたは、三十七歳の厄を除くため、と現世での利益を祈るだけのように思われているかもしれませんが、釈尊のお像をお造りになったことは奇特なことですから、後世の成仏も間違いありません」(右同)と、厄を通して、彼女に法華経信仰の大切さを説かれているのです。
我われ日本の柱はしらとならん 我われ日本の眼目がんもくとならん 我われ日本の大船たいせんとならん
『開目抄かいもくしょう』
文永ぶんえい八年(一二七一)九月十二日、侍所さむらいどころ平頼綱へいのよりつなの指示により、日蓮大聖人は、松葉谷まつばがやつの草庵で捕らえられてしまいます。捕らえられた大聖人は、鎌倉の小路を引き回されて、同日の深夜龍口たつのくちにおいて危うく斬首されそうになります。その後、この危機を奇跡的に免れた大聖人は、相模国さがみのくに依智えち(神奈川県厚木市)の本間氏に預けられ、佐渡に配流はいるされることになります。十月十日、依智を出発して、同月二十八日に佐渡さどの松ヶ崎まつがさきに到着します。そして、塚原つかはらにある一間四面ほどのお堂に住まわされます。このお堂は死者を捨てる場所に立てられており、壁面は今にも崩れそうで、堂内にまで雪が降り積もる有様です。
ところで、このような迫害行為は大聖人だけではなく、多くの弟子や信者たちにも加えられていました。そのため、幕府などからの強い弾圧に耐えきれずに、退転たいてんする弟子や信者たちが続出し、その中から、大聖人が説き続けられていた法華経の正しさに対して疑問を抱く者が現れます。つまり、法華経の信仰に生きる大聖人が迫害に遇う姿を何度も目の当たりにしてきた弟子や信者たちは、法華経を信仰していても何も利益りやくはなく、諸天善神の守護はなく、むしろ辛つらいことの連続である、という考え方に至るわけです。
それゆえに大聖人は、法華経信仰の正しさ、迫害の意義、お釈迦様の慈悲の心、諸天善神の守護とは何か、などを明確に答えなければなりません。ですから、弟子や信者たちが抱く疑いの目を開かせるために『開目抄かいもくしょう』を執筆されるのです。
本文には「詮せんするところは天てんもすて給たまえ、諸難しょなんにもあえ、身命しんみょうを期ごとせん」と、強い言葉が出てきます。そして、「本願もとがんをたつ」とて大聖人が三十二歳頃に立てた誓願せいがんを披瀝ひれきされるのです。これが前さきに掲げているお言葉です。
大聖人が度重なる迫害を覚悟し、法華経の信仰を表白する言葉を拝読したとき、真の仏弟子としての大聖人の求道心を感じます。
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