お釈迦さまの生没年は、紀元前五六六年頃~紀元前四八六年頃といわれ、八十年のご生涯です。
お釈迦さまがお生まれになった頃のインドは、まだ全土を統一する王朝は成立していなく、シュラーヴァスティ(舎衛城・しゃえじょう)を中心としたコーサラ国や、ラージャグリハ(王舎城・おうしゃじょう)を中心としたマガダ国などをはじめとして、多くの部族国家が分立していた時代でありました。
この二つの強国にはさまれたヒマラヤ山脈の麓に、カピラヴァストゥを都としていたシャーキャ族(釈迦族)と呼ばれる小さな部族がありました。 王の名をシュッドーダナー王(浄飯王・じょうぼんおう)、王妃をマーヤー夫人(摩耶夫人・まやぶにん)といいました。
お釈迦さまはこの両親から釈迦族の王子として四月八日にお生まれになったのであります。
お釈迦様のご生涯は、『八相成道(はっそうじょうどう)』といわれる八つの主要な出来事にわけられます。この八つの出来事からお釈迦様のご生涯をみていくことにしましょう。
兜率天(とそつてん:欲界六天の第四天で将来仏となるべき菩薩の住処)よりお釈迦様が六本の牙をもつ白象になり閻浮提(えんぶだい:私たちの住む世界)に降ってこられるという伝説です。
白象となり閻浮提に降ってこられたお釈迦様は、王妃マーヤー夫人の右脇より入り胎内に宿り、マーヤー夫人は懐妊したといわれています。伝説によればこの時、マーヤー夫人は宮殿で横になっていると、天上より六牙の白象が降りてきて右脇より胎内に入っていく夢を見たといいます。
マーヤー夫人は、お産のためにご自分の実家のあるコーリヤ国に帰る途中、ルンビニーの花園で休憩をとられ、真紅に咲き誇るアソーカの樹(無憂樹・むゆうじゅ)の一枝を手折らんとして右手を挙げたその時、マーヤー夫人の右脇から男子が出生しました。
後の「仏陀(ぶっだ)」となられる人の誕生の瞬間です。
生まれてすぐに東に向かって七歩あゆみ、右手を上にして天を指し、左手は下にして大地を指し、『天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)』と誕生偈(たんじょうげ)と呼ばれる詞を宣言されたということです。
王子はシッダールタ(悉達多・しっだるた)と名付けられました。“願いが満たされた者”という意味です。姓をゴータマということから、お釈迦さまの歴史上の名前はゴータマ・シッダールタといいます。お釈迦さまをシャーキャ・ムニ(釈迦牟尼世尊)と呼んでいますが、“釈迦族出身の尊者”という意味で、釈尊(しゃくそん)とも呼ばれています。また、“真理を悟った人”という意味でブッダ(仏陀)という呼び方もよく知られています。
釈尊の母マーヤー夫人は、出産の七日後に亡くなり、釈尊は母マーヤー夫人の妹であるマハー・ブラジャパティー(摩訶波闍波提・まかはじゃはだい)に養育され、何不自由なく実に豊かな生活環境の中で王子として生活されていました。『出家する前の私は、たいへん幸福な生活の中にあった。私の家には池があって、美しい蓮の花が浮かんでいた。部屋には香がただよっていたし、着るものはすべて最上の布であった。また、私のために三つの宮殿があって、冬には冬の宮殿、夏には夏の宮殿、春には春の宮殿に住んだ。』(中阿含経・ちゅうあごんきょう)と語られています。しかし、若き日の釈尊は極めて感受性が強く、何かにつけて深く考え込むといった瞑想的な性格がエピソードとして語られています。
ある農耕祭の日、農夫が畑を耕していると、地中から掘りおこされた虫が、どこからともなく飛んで来た鳥に食べられてしまいまいた。釈尊はこれを見て強い衝撃を受け、『ああ、生き物はなぜお互いに殺し合わねばならないのか』と思い悩まれたということです。 釈尊はこうした物静かで思索を追及する青年であったといわれています。
十六歳で隣国の王女ヤショーダラ姫(耶輸陀羅・やしょだら)を妻に迎え結婚生活に入り、一子ラフーラ(羅睺羅・らごら)が生まれました。幸福そのもののように見える結婚生活も、当時の釈尊の悩みは解決するものではありませんでした。
釈尊の出家の動機は『四門出遊』(しもんしゅつゆう)という物語によって語られています。
ある時、釈尊は家臣を連れて東の門より城外へ出かけました。
釈尊の行く手に年老いた醜い老人の姿がありました。
『あれは何物だ』 『老人でございます』
『誰でもあのようになるのか』
『はい、人は誰しも、やがて年老いて衰えるものなのです』
そう聞かされて、釈尊は暗い気持ちになって城へもどりました。次の日、釈尊は南の門より外出して病人を見、また、次の日には西の門より外出して死人を運ぶ行列に出会い、同じように暗い気持ちになって城にもどりました。四日目、北の門から外出した釈尊は、出家して修行に励んでいる清々しい一人の沙門(しゃもん)の姿を見ました。この沙門の清々しい姿に感動した釈尊は出家の決意を固められたといわれています。若き日の釈尊は、さまざまな機会に人生の根本苦(こんぽんく)「老・病・死」に直面し、その解決のために出家の方法をとられたのであります。
釈尊は二十九歳で愛する妻ヤショーダラー、息子ラーフラを置いて出家の道に入られたのです。この時の釈尊の胸中を経典(方広大荘厳経)は次のように語っています。
『父王よ、私は今、恩愛(おんない)の情を離れて老病死をのがれる道を求めて家を捨てます。養母プラジャーパティよ、私は苦しみのもとを断とうと思います。我が妻ヤショーダラーよ、人の世には必ず別れの悲しみがある。私はその悲しみのもとを断とうと思い立ったのだ』と。
城を出た釈尊は南のマガダ国に向かい、ラージャグリハ(王舎城)近郊で禅定を修することによって解脱に至ろうとする修定主義の、アーラーラ・カーラーマ仙とウッダカ・ラーマプッタ仙に師事し、忽ちにその奥義を体得したが『苦』の解決にはなりませんでした。
釈尊は次いでウルヴェーラーのナイランジヤナー河(尼連禅河)の畔(ほとり)セーナー村で、肉体を苦しめることによって精神的解放が得られるとする、苦行主義の修行に入りました。
この苦行は想像を絶する苦行で釈尊の手足は枯れ葉のようになり、背骨は浮き上がり肋骨が突き出し、瞳は落ちくぼみ肉体は死そのもののようになるほどでありました。
こうした苦行をしているときに、コンダンニャ、バッディヤ、ワッパ、マハーナーマ、アッサジの五人の仲間が出来ました。しかし、肉体をいたずらに痛める苦行主義は全く無益なものでした。
六年の歳月が空しく過ぎ去り、釈尊の心には何の解放も感じられませんでした。
釈尊は苦行を捨てて、ナイランジヤナー河で水浴して身を清め、痩せ衰えた体でウルヴェーラー村の中に入りました。そこで村の娘スジャータから乳粥の供養を受けられ、衰えた肉体の回復を図り、ガヤーに向かって歩を進め、その郊外にあった一本の大きな木(菩提樹)の下に坐られました。
村の娘スジャータから乳粥の供養を受けた釈尊を見た五人の仲間たちは、釈尊は修行を放棄した堕落者と軽蔑の眼差しで嘲笑しておりました。
釈尊は菩提樹の下で幾日も瞑想し、人生の苦悩がおこる原因について考えを巡らしていました。
修定主義や苦行主義が、釈尊の考える正しい『苦』の解決にならなかったのは、『苦』がなぜおこるのかということを考えなかったからで、ただ一時的に『苦』を忘れたり、ごまかそうとしていたからであります。
釈尊の求めた解決は、『苦』から逃避することではなく、あらゆる苦悩を乗り越えていくことのできる力強い積極的な生き方でありました。
釈尊は、静かに菩提樹の下に坐っておられました。
経典によれば瞑想中の釈尊の心の中を神秘的に語っています。
釈尊の成道が近いことを知った魔王が、これを阻止するために様々な妨害をしたというのです。
魔王はまず三人の魔女を使わし、その誘惑によって釈尊の心を乱そうとしました。釈尊の心が動じないことを見ると、今度は悪魔の軍勢を率いて、武力でもって釈尊の瞑想を妨げようとしました。
しかし、悪魔の放った矢は釈尊に近づくと悉く花びらとなって落ち、石の雨、剣の雨も釈尊を傷つけることはできませんでした。 『悪魔よ、汝は敗れたり!』
こうして釈尊は責めくる悪魔の誘惑を悉く滅ぼし、最後の瞑想に入られたのです。
経典(スッタニパータ)には釈尊の悪魔に対する詞として次のように記されています。
『悪魔よ、汝の第一の軍勢は快楽である。第二は不平不満である。第三は飢えである。第四はむさぼり、第五は怠ける心、第六は恐怖心、第七は疑いである。第八は虚栄心、第九は名誉欲、第十は傲慢な心である。悪魔よ、これが汝の武器である』
このように考えれば、悪魔とは私たちの日常生活のあらゆる所に出没する「迷いの心」であります。
釈尊もこうした迷いを克服することなくして『仏陀』にはなることはできなかったということです。
釈尊は深い内観によって人生のありのままの姿を観察し、苦悩のおこってくる原因をつきとめ、これを解決する道を完成されたのであります。即ち、『苦』というものは決して私自身の外側に客観的にあるのではなく、それは私自身の心のあり方が誤っているところから生じるということです。老・病・死が人生の根本苦といわれますが、それ自体は『苦』でも『楽』でもなく、それを受けとめる私自身の心が『苦』を生み出しているのです。こう悟られた釈尊の心は、さまざまな迷いと不安とが波の静まるように消え去り、静かな喜びに転じていきました。人生の真実の姿がひとつひとつ明かになっていきました。
『何ということだ。人は皆、さとりに至る可能性を持っているというのに、自分の心の愚かさのために、さまざまの苦しみに喘いでいる。智慧の眼を開いて真理に目覚めれば、苦悩から解放される道はすでに与えられているのだ!』
このとき釈尊は三十五歳、十二月八日の明けの明星が輝くころでありました。ついに悟りを開かれて『仏陀』となられたのです。以後、この地は釈尊が仏陀となられたことに因んでブッタ・ガヤと呼ばれるようになりました。
悟りを開かれた釈尊は、幾日も菩提樹の下で悟りの楽しみを味わって禅定に入っておられました。
この時、釈尊の心に次のような思いが起こりました。
『私の悟り得た真理は、たいへん奥深く難解なものである。常識的なものの考えに固まった一般の人々には、とうてい理解できないであろう。話しても人々は混乱するだけであるまいか。』
その時、天上に住む梵天は、釈尊の思いを知り釈尊の前に現れて言いました。
『釈尊よ、どうか世の人々のために真理を説いて下さい。世には汚れに染まらない心を持つ者もいます。教えに触れることが出来れば、彼らは悟りを得るでしょう。』
こうして、釈尊は梵天の要請を受け入れられて、世の中の人々に真理の法を説くことを決心されたのです。
釈尊は、最初に教えを説くべき相手として、六ヵ年の苦行を共にしたコンダンニャ以下五人の修行者にすることを考えられました。五人の修行者はベナレスの郊外サールナートという所に、ムリガダーヴァ(鹿野苑・ろくやおん)と呼ばれている場所で苦行を続けていました。彼らは釈尊が近づいてくるのを見ると、『苦行に挫折した者の言うことなど聞いてはならぬ。』と相談していましたが、目の前に光り輝く偉大な釈尊が現れると、思わず立ち上がり席を譲り挨拶を交わしました。釈尊は自ら『正覚者』となったことを宣言し、五人に向かって静かに語りかけました。これが釈尊最初の説法(初転法輪)であります。
説法の内容は、釈尊の人生に対する態度を示す『中道』の教え、および『苦』の原因とその解決の道を示した『四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)』の教えでありました。釈尊の説かれていることを聞いているうちに、まず最初にコンダンニャが領解(りょうげ)しました。この時釈尊は『コンダンニャはさとった。コンダンニャはさとった!』と喜ばれたといいます。
それから、あとの四人も次々に釈尊の教えをさとり、相次いで釈尊の弟子になりました。
ささやかながらもこのとき仏教の教団が成立したのです。
釈尊のご一生の中でこの初転法輪が重要な出来事のひとつに数えられるのであります。
この後、仏教教団はシャーリプッタ(舎利弗・しゃりほつ)・ムッガラーナ(目連・もくれん)等の十大弟子といわれる弟子や、多くの弟子・帰依者によって全世界に拡大していきました。
成道以後、釈尊はマガダ国のビンビサーラ王の帰依を受けて竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)、コーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)で多くの法門(ほうもん)を説いてこられました。
そして、ラージヤグリハ(王舎城)の郊外に位置するグリドラクータ(霊鷲山・りょうじゅせん)で『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』をお説きになりました。
釈尊の教えは八万四千の法蔵(はちまんしぜんのほうぞう)と言われるようにたくさんありますが、方便の教えが殆どで、真実は妙法蓮華経だけであると、無量義経(むりょうぎきょう)に「四十余年には真実を顕さず」としめされているのです。
その後、ガンジス河を渡ってヴァイシャーリーの町に着かれ、その町はずれでアーナンダ(阿難・あなん)と二人で最後の雨期を過ごしておられました。そこで釈尊は激しい腹痛におそわれました。アーナンダは『釈尊がお亡くなりになったら、私は何をたよりに生きて行ったらよいのでしょうか』と訊ねると、釈尊は次のようにお答えになられました。
『アーナンダよ、もしも私が教団を統率する者であり、教団が私を頼りにしているというのならば、そのような遺言を遺さねばならないだろう。しかし、そうではないのだ。私はすでに八十歳となった。たとえば古い車を修理してやっと動いているようなものだ。アーナンダよ、そういうものをあてにしてはならない。汝は現在も、私の死後も、汝自身をよりどころとし、真理をよりどころとすべきである。決して他のものをよりどころとしてはならない』と。
『自燈明(じとうみょう)・法燈明(ほうとうみょう)』のご遺言を遺されて、二月十五日、八十歳のご生涯を閉じられたのであります。
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