法華宗について
法華宗真門流ホーム > 法華宗について > 法華経のおはなし > 法華経は佛教の生命「仏種」である。第2章 第26話

連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第26話

掲載日 : 2012/4/21

妙法蓮華経如来寿量品第十六 (上)

寿量品無くしては一切経いたづらごとなるべし

 「如来寿量品」の「如来」とは、真如の妙理、すなわち妙法を覚った本仏のことであります。その本仏が衆生済度のため、この娑婆世界に現れて説法教化されたのが、迹仏釈尊であることは前にも述べました。当品は迹仏釈尊が「開迹顕本」して、久遠已来常住不滅の本仏なることを明かし、如来の寿命は無量にして永劫に尽きないことを説き示されたので、「如来寿量品」と申します。当品は、法華経二十八品の中で、一番肝要な本門の正宗分であります。この「寿量品」は法華経の魂魄(こんぱく)であり、一切経の生命(いのち)であり、全仏教の真髄でありますから、古来深遠で高度な哲学的・宗教的・倫理的解釈がなされていますが、ここではできるだけ平易に、要点のみご説明致します。

 前品「湧出品」の最後の、弥勒菩薩の問いに答えて釈尊は、今法華経を説いているご自身が、久遠実成の本仏であることを説き明かされるのでありますが、まず初めに釈尊は、諸の菩薩大衆に対して「汝等、当に如来の誠諦(じょうたい)の語(みこと)を信解すべし。」と、三度繰り返し誡められて、これからの説法が容易ならざることを警告されました。この時、弥勒菩薩以下の大衆は皆合掌して仏に向かい、「世尊、唯願わくば之を説きたまえ、我等当に仏の語を信受したてまつるべし。」と、三度繰り返し懇請し、更にまた「唯願わくば之を説きたまえ、我等当に仏の語を信受したてまつるべし。」と懇請致しましたので、これを「四請(ししょう)」と言います。そこで釈尊は「さらば説かん、汝等明に聴け、如来の秘密・神通之力を。」と警告されましたので、「四請」に対して「四誡(しかい)」と申します。

 このようにして、「四請四誡」の儀を経て説き出されたのが「如来寿量品」でありますから、釈尊は如何に「寿量品」を重視されていたかが解ります。故に、全仏教の中から「寿量品」を抜き取れば、後は蝉の抜け殻同様になってしまいますので、日蓮聖人は『寿量品得意鈔』〔(定)二〇六〇(縮)六七〇(類)一二六六〕に、
 「一切経の中に、此寿量品ましまさずば、天に日月無く国に大王なく、山海に玉なく人にたましゐ無らんがごとし。されば寿量品なくしては、一切経いたづらごとなるべし。根無き草はひさしからず、みなもとなき河は遠からず、親無き子は人にいやしまる。所詮、寿量品の肝心、南無妙法蓮華経こそ、十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ。」
と申されたのであります。更に『開目鈔』〔(定)五七六(縮)七九〇(類)五五〕にも同じ意味のご指南がありますが、ここでは省きます。


本仏釈尊の寿命は無始無終

 さて、四請四誡の後釈尊は、「一切の天人阿修羅は、今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城(がやじょう)を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たりと謂(おも)えり。然るに善男子、我れ実に成仏してより已来、無量無辺・百千万億・那由佗劫(なゆたこう)なり」と明言されました。四十余年前に覚りを得た新仏ではなく、無量無限の過去に成仏した、「久遠実成の本仏」であることを明かされたのです。これを「開迹顕本(かいしゃくけんぽん)」と言います。また「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」、「開近顕遠(かいごんけんのん)」とも申し「寿量品」の中心思想として、大変重要な教義であります。

 このように本仏釈尊のご寿命は、恰も円周をぐるぐる廻っても始めも終わりも無いごとく、「無始無終」なのであります。要するに如来の寿命とは、すなわち法華経の寿命であります。一切の生あるものは皆寿命が肝要であるように、「如来寿量品」は法華経の"いのち"でありますから、最も大切だとされている訳です。


本仏釈尊と仏法僧の三宝

 三世益物(やくもつ)・常住不滅の本仏釈尊が、方便を以って涅槃を現ずるのは、衆生に如来の出世に値い奉ることの難しさを知らしめ、仏を慕い仏を渇仰してその化導を受け、苦悩を脱(のが)れしめんとする計らいであります。そして、心から仏を恋慕渇仰する者があれば、我はその前に現れて妙法を説くと申されて、「法華七喩」の掉尾を飾る、「良医病子の喩え」を説かれるのであります。

 或るところに、どんな病気も必ず治すと言われている良医がありました。良医には沢山の子どもがありましたが、その子ども達が父の留守中に誤って毒を飲んでしまい、大変苦しんでおりました。帰宅した父は驚いて、早速色・香り・味ともに良い薬を調合して与えます。毒の軽かった子ども達は、その薬を飲んでたちまち病が癒えたのですが、中毒のひどい子ども達は本心を失い、どうしても薬を飲もうとしません。そこで良医は、方便を用いることにします。「お父さんは、また出掛けなければならない。薬はここに置いていくから、いつでも飲むんだよ。」こう言い残して、再び旅に出てしまいました。そして旅先から使いを出し、「父が急死した。」と連絡させます。深い悲しみが、薬を飲もうとしなかった子ども達の本心を呼び戻し、父が置いていってくれた良薬を飲ませることになったのです。その様子を伝え聞いた良医は急いで帰宅し、元気になった子ども達とめでたく対面することができました。

 以上が、「良医病子の喩え」のあらましであります。ここにいう「良医」とは本仏釈尊であり、「病子」とは私達一切衆生であり、「毒薬」とは四十余年・未顕真実の方便の権経であり、「良薬」とは妙法蓮華経の五字であり、遣使還告(けんしげんごう)の「使い」として現れたのは、日蓮聖人であります。

 また当品には、仏教で一番大切な仏・法・僧の「三宝」が説かれています。「」は寿量本仏釈尊、「」は妙法蓮華経の五字、「」は日蓮聖人であります。法華経を信じ、南無妙法蓮華経とお題目を唱えれば、本仏釈尊と私達衆生とが親子の関係となり、感応のご守護を頂けるのであります。本仏釈尊を忘れて、阿弥陀仏とか大日如来を信じていては仏教の根本が無くなり、根の無い花、水中の月を見て天月を知らない五百の猿と同じであります。仏教の根本義を明らかにしたお経が、「如来寿量品」なのであります。

 七十五代崇徳天皇は法華経のご信仰篤く、寿量本仏に喩えた空の月を眺められて、
   月影の 入るさへ人のためなれば ひかり見ねども 頼まざらめや
と御製され、九十一代後宇多天皇も、
   鷲のみね 八とせの秋の月きよみ その光こそ 心には住め
と、「寿量品」のこころを御製されています。

法華経のおはなし トップへ戻る

このページのトップへ ▲