前品に於て「中根」の四大声聞は、法華経信仰に入った幸せと法悦のこころを、「長者窮子の喩え」を以って、「この世で一番尊い宝を、求めざるに自ずから授かったようなものです。」と申し述べました。それを聞かれた釈尊は、「誠に汝等の言う通りだ。」とお賞めになり、更にそれを補って「三草二木の喩え」を以って、広大なみ仏の慈悲と法華経の功徳について述べられています。この「三草二木の喩え」は、「譬喩品」の「三界火宅の喩え」、「信解品」の「長者窮子の喩え」に次いで、「法華七喩」の第三に説かれている、有名な物語であります。
この「薬草喩品」では、釈尊ご自身を大雲に喩え、そのご説法を草木に降り注ぐ雨に喩え、草木を衆生に喩えて、具体的に易しく説かれています。
釈尊は、摩訶迦葉等のお弟子達に対して、「この全世界の山や谷、野等広い土地に生えている、大小様々の木や薬草を初め、植物の種類は数えきれないが、そこへ雨雲が空一杯に広がり、全世界を覆って沛然として静かに、これらの草木の上に雨が降り注いだとしよう。すると、これらの草木は何れも小は小なるだけ、中は中なるだけ、大は大なるだけ各々相当に潤いを受け、これによって根も茎も枝葉も成長し、花咲き実を結ぶのである。降る雨は同じ一味の雨でも、潤いを受ける草木は、大・中・小それぞれの姿・形によって千差万別であるごとく、如来説法の雨は一相一味でも、潤いを受ける衆生の機根は区々である。」と申されました。
すなわち、仏の教えは妙法の一相一味によって一切衆生を成仏させたい、という大慈悲心から出てくるのでありますが、これに対して衆生の心は万別であり、同じように教えを聞いても、浅く信解する人もあれば深く領解する人もあり、誠に様々であります。
釈尊はことばを継いで、「摩訶迦葉よ、如来がこの世に出現したのは、恰も大雲が現れて全世界を覆うようなもので、如来の説法は雨のごとく、一切衆生に平等に注ぐが、諸法実相という妙法一味の雨も、聞く方の機根の賢愚・利鈍によって、受けとめ方はまちまちである。よって、未だ度せざる者は妙法によって済度せしめ、未だ妙法を解せざる者には妙法の有難いことを理解せしめ、未だ安んぜざる者には妙法によって成仏できると安心せしめ、未だ涅槃の悟りを得ず妙法を悟らざる者には、妙法は一切衆生を成仏せしめる功徳力のあることを悟らしめたい。」と申されて、一切衆生が成仏できる教えは、三乗方便の教えではなく、一仏乗の法華経であり、妙法の経力と功徳力が絶大であることを説き明かされたのであります。
そして、釈尊出世の本懐として説いた法華経を、疑わずに信解し実行することによって、智恵は愚かでも、業の深い者でも、三草二木のように妙法の慈雨に浴すれば、皆平等に成仏できると申されています。平安朝の歌人として名高い普賢託宣は、
もろともに 一味の雨はかかれども 松はみどりに 藤はむらさき
と、当品のこころを詠んでいます。
「三草」とは、小の薬草・中の薬草・上の薬草を言います。「小の薬草」は人界と天界に喩え、「中の薬草」は声聞と縁覚に喩え、「上の薬草」は、仏に成るための六度の行に精進する小乗の菩薩に喩えます。
「二木」とは、小樹と大樹です。「小樹」は通教の菩薩で、「大樹」は別教の菩薩のことですが、共に方便の教えによって菩薩行をしますので、山吹のように花は咲けども仏の実はなりません。
以上の様に、三草二木は方便の教えによって修行する人々に喩えられています。そしてこれらの草木は、妙法の雨を注がねば必ず枯死するごとく成仏できないが、円教の菩薩行に励む法華経の信者は、妙法一味の雨に平等に浴して成仏できると説かれています。釈尊は、この尊い法華経の信心を生涯貫くことによって、成仏の大果報が頂けると申されているのです。この「薬草喩品」では、三乗方便の教えと一仏乗真実の法華経とを対比して、み仏の広大な慈悲と、法華経の功徳利益の大なることを力説されています。赤染衛門は、
法の雨は 草木も分かで注げども 己がしたこそ うけまさりけり
と、当品のこころを詠じています。
日蓮聖人は、『三世諸仏總勘文鈔』〔(定)一六九七 (縮)一九〇五 (類)一三四二〕に、
「薬草喩品の疏には、円教の理は大地なり。円頓の教は空の雨なり。亦、三蔵教・通教・別教の三教は三草と二木と也。其の故は、此の草木は円理の大地より生じて、円教の空の雨に養はれて五乗の草木は栄れども、天地に依って我れ栄たりと思ひ知らざるに由るが故に、三教の人天二乗菩薩をば、草木に譬えて不知恩と説きたり。故に草木の名を得たり。今法華に始て五乗の草木は、円理の母と円教の父とを知る也。一地の所生なれば母の恩を知るが如く、一雨の所潤なれば父の恩を知るが如し。薬草喩品の意是の如く也。」
と、ご指南されています。
「薬草喩品」は、三草二木が妙法の法雲慈雨に潤って生育するように、世の中の全ての人々が一人残らず成仏できる原理を説いた、有難い経典です。従って、法華経以前に説かれた三乗方便の教えを捨てて、一仏乗の法華経信仰に入れば、一味平等に誰でも成仏できるのであります。
ところが、人は各々過去の宿業がありますから、直ちに現証ご利益を頂ける人ばかりではありません。しかし、法華経は一念三千の「仏種」を明かし、十界皆成仏の原理を説く大乗仏教の真髄であり〝甘露の雨〟ですから、谷川の水の流れるごとく、絶えざる信心で唱題行を続けていますと、必ず幸せになることができます。
この世に仏国土を実現しよう
整理して申しますと、この「薬草喩品」には、四つの重要な示唆が含まれていると思います。
一には、全世界を覆う大雲は釈尊であり、雨は妙法の説法であります。法華経は、全人類を救済するために説かれたお経で、方便の教えのごとく自利のみを追求するのでなく、自分も良かれ人様も善かれという、全体主義的大乗精神を示しています。
二には、山や谷、野等広い土地に生える、それぞれ姿・形が異なる大・中・小様々の植物が、空の大雲から降る一相一味・妙法の雨水によって、それぞれに美しい花を咲かせ、美味しい果実を結ぶということであります。これはすなわち、人それぞれ生活環境は異なっていても、法華経の信心によるご利益と果報は、絶大であることを現しています。
三には、み仏の広大な慈悲による説法の雨は、全世界の全ての草木を平等に潤し育て、花果をもたらすということであります。大乗仏教の真髄として説かれた法華経の教えは、いかなる時代に於ても全人類の指導原理であることを示すと同時に、法華経の信者は一人残らず、全ての人が平等に仏果に至ることを教えています。
四には、一相一味、妙法の雨が等しく注いで、全世界の三草二木を普く潤したということです。これは、世界は一家、人類は兄弟姉妹という法華経の精神を表すと共に、全人類が平等に幸せになれる道を教え示しています。 法華経の〝法雲慈雨〟が、全世界の人々に普く平等に注いで、非行や暴力、争いの無い平和で活力ある明るい世の中と幸せな家庭を築き、真の文化国家、仏国土をこの世に実現せんとするのが法華経の精神であり、日蓮聖人のみ教えでもあります。聖人は『崇峻天皇御書』〔(定)一三九五 (縮)一六四五 (類)七五一〕に、
「蔵(くら)の財(たから)より身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此御文(ふみ)を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。」
と、ご指南されています。凡夫は形而下の、形のある財産のみを追求していますが、有形の財産は死んで持って行くことはできません。死んでから持って行ける財産は、形而上の、無形の善根功徳の財産だけですから、元気なうちに心の財宝を積むこと、すなわち唱題聞法が大切であります。
八十二代 後鳥羽天皇 いたづらに もるゝ草木もなかりけり 一味の雨の ところわかねば
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