「方便品」は、「如来寿量品」に次いで大事なお経です。天台大師は「方便」の二字について、法用(ほうゆう)方便・能通(のうつう)方便・秘妙(ひみょう)方便の三通りの説明をされています。第一が「法用方便」で、水の方円の器に従うごとく、衆生の機根に応じて説法し、真実の法華経信仰へ導くための方便です。第二の「能通方便」とは、方便の権門(ごんもん)を通って、真実の法華経へ導くための方便です。第三の「秘妙方便」は、万億の方便により随宜説法する法華経の方便で、善巧の智恵をもって、衆生を妙法の船に乗せて済度する、仏の不思議な智恵のはたらきを言います。
「方便品」は、仏身観に於いては始成正覚の仏で、未だ久遠実成を説かず、未顕真実の経なる故「方便品」と言いますが、宇宙観に於いては真実の諸法実相を説き、仏性論に於いては開仏知見を説き、教法観に於いては三乗方便の権経を法華経一乗教に開三顕一し、行法観に於いては菩薩行を説きます。
迹門の「迹(しゃく)」とは、喩(たと)えば雪道を歩くと足跡が残ります。この足跡を「迹」と言います。本門の「本」とは、雪道を歩いている本人のようなものです。日蓮聖人は、このことを天月と水月で説明されています。空の月は「本」で、水に映る月は「迹」ということになります。天月が輝けば、海や川でも池や沼でも、水のあるところには月影が映ります。気が遠くなるほどの久遠の大昔に、「妙法」を覚った根本実在、常住不滅の本仏釈尊がおわし、この本仏が、衆生済度のためにこの世に姿を現されたのが、「迹仏」であります。天月は「本仏」に喩え、水月は「迹仏」に喩えられています。また、本門・迹門というように、「門」の字がつけられていますのは、仏さまのご説法を「法門」と呼んでいるからです。
例えば、お寺参りをする時、山門を通って本堂のご本尊さまを拝むように、迷いの世界に苦悩している私達は、この仏さまの教えの門をくぐって、“転迷開悟”する訳です。本迹の関係はこれでご理解いただけると思いますが、私達は「迹門」という門を通って、真実の「本門」・「寿量品」のご本尊さまを拝むことになります。迹門十四品の中でも、この「方便品」は高度の仏教哲学思想を述べた、大変難しい内容になっています。迹門の中心となるのが「方便品」で、本門の中心となるのは「如来寿量品」であります。「方便品」は、「寿量品」を説くための方便(秘妙方便)の経でありますから、「方便品」と申します。
当品の初めに、「爾時世尊・従三昧・安詳而起・告舎利弗」とありますが、この「世尊」とは、釈尊の十の呼び方の一つで、釈尊はこの世の中で一番尊い仏ですから「世尊」と申します。世尊は、前にご説明したごとく、無量義処三昧(むりょうぎしょさんまい)から静かに立ちあがられ、智恵第一といわれた舎利弗尊者に向かって、「仏智は甚だ深く無量であり、その教えの法門は、甚深無量(じんじんむりょう)で難解難入(なんげなんにゅう)であって、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の二乗衆には解らないから、もう説くことはできない。」と嘆かれます。そして、「それは諸法実相であって、仏達にしか解らない難しい世界だから……。」と申されます。
そこで舎利弗が四衆(出家と在家の男女)を代表して、「どうか、その難解の教えを私達に説明してください。」と、世尊に請願致します。こんなやりとりが三度繰り返され、ようやく世尊は「それほど熱心に何度も請願するのなら、説かぬわけにはゆくまい。」と申され、直ちに「諸法実相」という深い仏の悟りの境地、すなわち仏の内証を示されたのが、「唯仏与仏・乃能究尽・諸法実相」という有名なことばであります。これは、世尊を初めとする仏さまのみが、諸法の実相を究め尽くした智恵であり、諸法の実相を観ることのできないものには窺い知りえない、深遠高尚な証悟の境地であります。
この諸法実相論は、大乗仏教の真髄といわれる法華経の理論の根本であり、大乗仏教思想全体に大きな影響を与えています。
それでは「諸法実相」とは何か、ということになりますが、かいつまんでご説明しますと、「諸法」とは全てのもろもろの存在、森羅万象をいい、「実相」とは、真実ありのままの相(すがた)ということです。私達の目に見える現象世界だけでなく、目に見えない心の世界、心の働きや極小の世界、反対に極大の世界や霊界までも、全て妙法の存在であるということです。これを、現象即実在の世界観と言うのであります。この根本の原理、大宇宙の大道たる妙理を達観すれば、我即ち妙法、妙法即ち我で、妙法と我とは二元対立するものでなく、二にして一、一にして二の、不思議な存在であるということです。
すなわち、現象界に存在する全てのもの、この大宇宙を初めとして動物や植物、生物・無生物のみならず、霊界に至るまで、凡夫の目には見えなくとも、皆悉(ことごと)く因果の法則によって存在し、久遠本仏釈尊の“毎自作是念”の大慈悲に包まれ、大智恵の光明に照らされ、生かされて生きている“妙法の存在”であります。
この「諸法実相」の妙法を覚り得た仏さまを、「本仏釈尊」と申します。久遠本仏の“力用(はたらき)”は、あとで「如来寿量品」に説き明かされますが、常住不滅の久遠本仏が、衆生済度のため三千年の昔、実際にインドに出現せられたのが「迹仏釈尊」で、応身仏(おうじんぶつ)と申します。
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