中陰(亡くなられてからの四十九日の間)のお参りで、ある檀家さんのお家に行かせていただいた時の話です。そのお宅の奥さんが 、「お上人さん、先日孫が・・・」と実に微笑ましい 話をしてくださいました。
「先日孫が、朝お仏壇にお供えしたお水が、夕方になって量が減っているのを見て、『おばあちゃん。仏壇のお水が減ってるよ。きっと仏様と亡くなったおじいちゃんが飲んでくれたんだね。』って言ったんですよ。」
皆さんはどう思われましたか?実に素朴で純粋 、微笑ましくて、子供らしい言葉ですよね。 でも、私たち大人は、その純粋さを微笑ましいと思いながらも、同時に学校で習った「科学の知識」を使って、「仏様が飲んだんじゃなくて、蒸発しただけなんだけどね。」なんて、どこかでその言葉を冷笑してしまっていないでしょうか。 そして、この純粋な子供たちと同じ感じ方をしていた大昔の先人の考え方・感じ方を蔑ろにしてしまってはいないでしょうか。
もちろん「科学的な正解」としては「蒸発した」という説明が正しいです。では 、「蒸発」って何ですか?なぜ起こるんですか?と聞かれたら自信をもって答えられるでしょうか。 「仏様」って何ですか?と、真正面から聞かれたとしたらどうでしょうか?
詳しい科学的説明は他の方にお任せするとして、実に「妙(みょう)」としか言いようのない「宇宙」や「自然界」の原理原則に従って、コップの水は水蒸気に変わって蒸発していきます。 この「宇宙」や「自然界」の原理原則そのものが我々の信仰する「久遠のご本仏」がお説きになる「諸法実相」の教えに他なりません。 ですから、「コップの水が蒸発した」という言い方と、「仏様がお飲みになった」という言い方は、表現方法こそ違え、そこには同じ仏様の尊い教え、深い宇宙の真理があるのです。
私は、「宗教」と「科学」、「学問」と「信仰」を対立的にとらえる時代はもう終わったと思っています。 人間が求めていく本物の幸福には、その両方が必要です。 「先人たちの残してくれた科学的知見、知識」を、「その知識を持たなかった更なる先人の捉え方、感じ方(これを、古典、経典や、まだ学校で知識を習っていない子供たちが教えてくれます)」を通して捉えなおし、その二つをしっかり結んで深く理解していくこと。 「科学」や「経験」「知識」は大切にしながらも、決して「増上慢(仏様の教えを悟ったと思い込み自負し、自惚れ、おごり高ぶる人)」にならず、合掌して、「輪(わ) 」と「和(わ)」の心をもって、「久遠のご本仏」、「自然」と、その体現者である「先祖」からも「子孫」からも謙虚に学ぶ姿勢を持てるかどうか。 今、私たち人類は、それを試されていると、強く感じています。
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