追善供養という考えは死者が迷い苦しんでいることを前提としています。その理由が御妙判『顕謗法抄』に明かされています。
第一 等活地獄 殺生した者が堕ちる(罪人の寿命は1兆6千億年)
第二から七は省略します。
第八 無間地獄 謗法(仏さまの教えをそしること)の者が堕ちる
第一から第七に至るまで地獄の苦しみは10倍増しで、第八は1000倍増しの極苦になるといいます。
ところが、日蓮大聖人は、過去現在未来に至るまですべてが御本仏の胎内の中だと仰せです。仏様の胎内ということは、悩みも苦しみもない安楽な世界なのです。たとえ死のうとも、その行く先は御本仏の胎内から一歩も出ないということです。
それなのに、地獄に堕ちるとはどういうことなのか。「地獄に堕ちた!苦しい!助けてくれ!」死者は、そこが御本仏の胎内であるにもかかわらず、生前の業の報いによって、地獄に見えていて苦しいと思い込んでいるというわけです。
たとえば、同じ水中でも、人は人という業によって水中は苦しいところと見ます。魚は魚という業の報いを受けて安楽な場所と見ます。餓鬼は餓鬼の業火に焼かれ、火の海と見ます。
このように、同じ水中であっても背負っている業によって全く見え方が変わってしまうのです。死者が御本仏の功徳の中を地獄と見てしまうのはそのためです。
つまり、地獄とは死者の強い思い込みが生んだ幻の世界なのです。ここを「死者は迷っている」というのです。ですから、私たちは何としても気付かせてあげたいのです。「幻想を見ているんだよ、そこは御本仏の胎内、安心できる場所ですよ」と。
そこで、追善ということが必要になってきます。三大秘法の南無妙法蓮華経と唱えることで、地獄の世界が幻想なんだということに一日でも早く気付いてもらう、これが追善ということなのです。
御本仏の名前は南無妙法蓮華経ですから、これを何度も唱えるということは、「お父さん、お母さん、そこは御本仏南無妙法蓮華経の胎内ですよ」と言っているということなのです。
では、なぜ何度もお題目をとなえるのか。それは業の深さゆえに地獄の境界に堕ちたのだから気付いてもらうのも一筋縄ではいきません。わたしたちも思い込みが強ければ強いほど心を開くのに時間がかかります。死者の思い込みもまた同じことなのです。だから、一日も早く気付いてもらうためにも一回でも多く、一人でも多くお題目を唱える必要があるのです。
ところで、どうして死者の供養に必ず塔婆を建立するのでしょう。
それについてはまず、草木成仏ということを理解しなければなりません。ここからは御妙判『草木成仏口決』に沿って説明していきたいと思います。
草木は、有情(感情を持つもの)なのか、非情(感情を持たないもの)なのかといえば、非情だと言えます。また、南無妙法蓮華経が有情非情のどちらも成仏させることができるといわれますが、その根拠は「妙法・蓮華」の文字の中にあります。
①蓮華は草木なので非情です。
②なので蓮華に対する妙法は、自動的に有情ということになります。
③情は生きている者だけが持つものなので、有情成仏=生者の成仏となります。
④このことから有情の対局にある非情成仏は死者の成仏を示すことになります。
ここで、蓮華という生花(なまばな)を考えてみます。花には形があります。形は色(しき)ともいいます。花には香りがありますが、香りには形がありません。これを香(こう)といい、色は蓮華、香は妙法と配置されます。
《香》
有情―妙法―生
非情―蓮華―死
《色》
花があれば香りがあり、香りがあればそこには必ず花があります。このことから、妙法と蓮華は一体不二のものだと理解できます。
そして、妙法とは南無妙法蓮華経のことですが、有情の私たちが唱えるということはその言語音声による「南無妙法蓮華経」は有情といえます。南無妙法蓮華経と唱えることにより、死者が有情の妙法を得て成仏への道が開かれるというわけです。
香りは花(色)がなければ香ることができないように、妙法を入れる器が必要となります。それが色、塔婆です。ですから、三大秘法の南無妙法蓮華経を入れる器としての塔婆は決して欠かすことのできないものだということなのです。
塔婆供養の原理をしっかりとご理解いただき、ご法事の際はより多くの塔婆を立てて追善を行っていただきたいと思います。
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