これからご説明する「見宝塔品」から「嘱累品」までの十二品は、霊鷲山虚空会のご説法になります。
当品を「見宝塔品」と申しますのは、宝塔が現れて、菩薩達が宝塔を拝見したからです。前品「法師品」は、この法華経は全仏教中第一の経であり、如来全身の舎利であるから、法華経を説く法師に親近(しんごん)して、学び修行をすれば必ず仏に成れる、と申されたところで終っています。
すると、忽ち大地から七宝荘厳の大宝塔が涌現し、天からは妙華が舞い降り、楽神は音楽を奏しました。そして塔の中から、「善哉(よきかな)善哉、釈迦牟尼世尊の説き給う、妙法華経は真実である。」との大音声が、虚空に響き渡りました。そこで、大衆を代表して起立合掌した大楽説(だいぎょうせつ)菩薩と釈尊との間で、次のような問答となります。「どういう理由で、宝塔が忽然(こつねん)として涌現したのでしょうか。」「この塔の中には、如来全身の舎利が納めてある。これは遠く古い昔、東方宝浄国におられた多宝如来の舎利で、この仏は法華経を説く所に現れて、法華経は真実の教えであることを証明する仏である。」
そこで大楽説菩薩が、「私達に、その多宝如来を拝ませて頂きたい。」とお願いしたのに対し、釈尊は次のようにお答えになりました。「今ここに、多宝仏の身を示さんと欲するならば、十方世界の我が分身仏を全て集めてから、塔を開かなくてはいけない。これは、多宝如来がその身を示現する時には、全ての分身仏を一処に集めよ、という願があるからである。」この「分身」と申しますのは、本仏釈尊が機に応じて無量の世界に出現されることで、喩えば天の一月が海や川・池等、あらゆる水に月影を宿すごときを言うのであります。そこで釈尊は、眉間の白毫から光を放ち、十方世界を照らされます。すると、忽ち娑婆世界は浄土に変り、分身の諸仏は陸続この娑婆世界に集まって、分身仏で充満しました。そして、なおも分身仏は次々と集まってきます。
全ての分身仏を受け入れるために、釈尊は八方に亘って無数の国々を浄土と変え、それでもなお満ち溢れる分身仏のために、更にもう一度、八方に亘って無数の国々を浄土と変えられます。これを「三変土田(さんぺんどでん)」と呼んでいます。
「三変土田」の儀は、何の意を寓したものであるかということについては、諸説があり定かではありませんが、「三乗即一乗」の深意が基底となっていることは、疑う余地のないところであります。
さて、塔中の仏さまを拝ませて欲しいという、大楽説菩薩の願いに応えて、釈尊が右の指で七宝塔の戸(とぼそ)を開かれますと、そこには多宝如来が蓮華に坐し、法華経を聴聞し証明するために現れたことを述べられた上、蓮華の半座を分かって釈尊を右の上座に据えられたのであります。釈迦・多宝・十方分身の「三仏同集」は、法・報・応・三身即一の深義を詮(あらわ)します。すなわち、多宝は法身・釈迦は報身・十方分身は応身であり、これは「寿量品」の遠序となっています。ですから本隆寺では、お会式に「遠序偈」を読むのです。
なお、本隆寺の仏さまは一塔両尊、釈迦、多宝の二仏が同一蓮華の上に並坐され、座配も右勝左劣になっております。これすなわち、「宝塔品」のお経文に由来するものであることは、申すまでもありません。
宝塔涌現により、地上の説法から虚空会の説法となったことは、虚空には何一つ障碍が無いのと同様、法華経の教理は高大深遠・縦横無尽であり、信ずる人は誰でも平等に利益を頂けることを表しています。
さて、続いて釈尊は大音声にて「誰か能く、此の娑婆国土に於て、広く妙法華経を説くや。今正しく是れ時なり。如来は久しからずして、当に涅槃に入るべし。仏滅後に法華経を説かんとするものは誰ぞ。」と唱募され、仏滅後の悪世に法華経を受持することの困難を説き、充分な覚悟を促すべく「六難(ろくなん)・九易(くい)」を説かれます。
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