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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第7話

掲載日 : 2006/4/7

 「無量義経」は牛の鼻木法門

「無量義経」は、釈尊がインド・マカダ国の首府であった、王舎城の近くにある霊鷲山で法華経を説く前にお説きになった、大変重要な役割をもつお経です。全一巻で「徳行品」第一、「説法品」第二、「十功徳品」第三という三編から成っています。
第一の「徳行品」には、大荘厳菩薩が仏身と仏徳を讃えたことを述べ、第二の「説法品」では、大荘厳菩薩の問いに対し、釈尊が「妙法の種」から生ずる「無量義」という名の法門を修行すれば、無上の悟りが得られることを示されます。
そして、一切衆生の性格や智能が不同であるが故に、四十余年の間方便のお経を説いてきたが、いよいよ時節が到来したので、無上甚深微妙の「無量義経」を説くから、この教法の水で方便のお経に執着する「心の垢」を洗い清めるよう説かれます。また、第三の「十功徳品」では、このお経には、心の迷いを除く不思議な、十の功徳力があることを述べられています。

このように、「無量義経」はこれからお話しする法華経の説法内容と表裏一体の教理となっています。これこそが、別のお経でありながら法華経の「開経」と言われる故であります。

「無量義経」には、「従一出多」(じゅういちすいた)の教義が説かれ、法華経の「従多帰一」(じゅうたきいち)の教義と、表裏一体をなす内容でありますから、この「無量義経」を法華経の「序分」とするのであります。
「説法品」に「無量義は一法より生ず」とあります「一法」とは諸法の実相で、「諸法実相」とは妙法であり、この妙法より多くの仏法が説かれるところから、「従一出多」と言います。
そして、多くの方便のお経を円満に開顕統一して、壽量本仏釈尊に帰一するので、「従多帰一」とも「万法帰一」とも称するのであります。「従一出多」は演繹であり、「従多帰一」は帰納であります。

すでにお話ししたごとく、教主釈尊一代五十年の教説を総括判定して、方便と真実とに分けます。方便とは真実の目的を達するための手段で、法華経以前に説かれた四十余年の教えは、全て法華経の信仰へ誘引するための方便であり、釈尊がこの世にご出現になったのは、法華経を説いて一切衆生を成仏せしめることが目的なのであります。
そこで、最も適確な経証は、法華経の序分である「無量義経」説法品の「四十余年・未顕真実」という、爾前経に対する破文であります。
浄土真宗では、「四十余年・未顕真実」の破文を逃れるために、浄土の三部経は法華経と同時に霊鷲山で説かれたと言っております。
しかし、経証は動かすことは出来ません。浄土三部経の一つ「観無量壽経」には、阿闇世太子とあり、法華経には阿闇世王とあります。太子と王とどちらが先か後か論ずるまでも無いことです。

古来、「無量義経」の「四十余年・未顕真実」の語を「牛の鼻木法門」と申します。どんな牛でも、鼻木をかければおとなしくなり、子供でも引き回せます。
他宗の人は、この鼻木をかけられるのを嫌がりますが、釈尊の遺言である「涅槃経」には、「法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、智に依って識に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざれ」と教誡せられています。つまり、一切衆生が成仏できる「仏種」を説いた法華経に依って、未顕真実・方便の権経に依るなと、牛に鼻木をかけるごとく、「四十余年・未顕真実」の鼻木をかけよと厳しく誡められています。

 

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