これは私の先生から教わった喩え話です。
「とあるところに、A、B、Cという3本の木があり、それぞれの木の持ち主がいました。3月頃、Aという木がきれいな花を咲かせます。人々はその木のまわりに集まり、花の美しさを誉めたたえます。それが面白くない、Bという木、Cという木の持ち主は、『お前は、何ぐずぐずしているんだ。A君はとっくに花を咲かせたぞ。お前も早く花を咲かせないか!!』とそれぞれ自分の木をしかりつけます。
やがて、4月になると、今度はBという木が、とても美しい花を咲かせます。人々は今度はBという木のまわりに集まり、その美しさを絶賛します。ここで面白くないのがCという木の持ち主、家に帰って『お前は本当にぐずだ。役立たずだ。A君もB君も花を咲かせたというのにお前は何をやっているんだ。大体お前は、幹も枝も曲がりくねっているしゴツゴツしている。気性が素直でない証拠だ。せめて添え木でもして、幹を真っすぐにしてやろうか』と罵倒します。
実はAという木の名は「梅」、Bという木の名は「桜」、Cという木の名は「松」。桜が4月にならなければ花を咲かせないのは当たり前。松の幹や枝が曲がっているのは当たり前で、むしろそれこそが松の価値なのです。」
梅は梅として、桜は桜として、松は松として生きることが自然であり、最も幸せなはず。それを知ってか知らずか自然界の生き物たちはあるがまま、当たり前の姿で生きています。それなのに我々人間だけは、「己の本当の姿、才能、役割」が何であるかを知ろうともせず、他人と比較し、勝手に自分を卑下したり、落ち込んだり、また、損得勘定だけに走って、自分に合わない生き方を選んで苦しんだり、そして、それが智慧や精進努力であるかのように、勝手に勘違いしているのではないでしょうか。
日蓮大聖人御妙判『観心本尊抄』の一節にいわく、
「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み(つつみ)、末代幼稚の頸(くび)に懸けさしめたもう」
法華経の本当の有難さはある決まった型に合わせることができた人、厳しい修行に耐えられた限られた人だけが成仏できるのではなく、すべての人々が仏様の教えを真っすぐに進むことでそれぞれ成仏できることを説いている点にあります。仏様が大慈悲をもって「南無妙法蓮華経」のお題目に包んで自分の頸に懸けて下さった珠を磨き続け、すべての人々が自分らしく己を生きられる社会の実現のため皆様と共に歩み続けていきたいと考えます。
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