仏教には回向(えこう)という言葉があります。法要などでお経の最後に導師が唱える文句を回向文といいますが、この回向ということの意味は、自分がお経をあげるなどの修行をし、よい行いをすることによって得た功徳を他の人にさし向ける、与えることであります。一般的には、亡くなった人に追善として功徳をお供えすることであります。
ある方が、回向ということに関してこんなことを言っておられます。
「回向というものこそは、死んだ人間と生き残った人間とをつなぐ唯一の絆、あるいはコミュニケーションの唯一の方法であることに私は気が付きました。仏教において、よくぞ回向という観念を持ち続け大事にしてきたことだ、とその時思ったものです。そして、今でもそう考えております。回向というものこそは、死者と生き残った者とをつなぐほとんど唯一のパイプなのです。」
と。
まさに、お経をあげ、合掌して回向文を唱える、日々のお勤め、これは亡くなった人とのつながりを自覚するものであり、対話であると感じます。
また、仏教は、一切衆生(生きとし生けるもの)ともどもに仏の道を完成することを目指す教えであります。
法華経の化城喩品にこんなお経文があります。
「願わくは、此の功徳をもって普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」
これを解説しますと、昔、大通智勝仏という仏様が、菩提樹の下で悟りを開かれました。その大通智勝仏には十六人の子供がありました。子供たちは、父親が悟りを開かれたというので早速に駆けつけて、御祝いをするとともに、その悟りの内容をお説き下さるようお願いをしました。また、仏が悟りを開かれたことによって、世の中が光に満ちあふれたので、「これは何事か。」と梵天というインドの神々が各地から集まって来て、仏様に道を説かれる様に要請しました。「仏様がこの世に出現されるまではこの世界は真っ暗闇で、悪い者がはびこっていました。人々も皆悪い道に落ちてしまい、苦しみ悩んでいました。ところが、今、仏様がこの世に出現され、私たちの喜びは限りないものです。どうか、悟りで得られたその功徳をすべての者に及ぼされ、我々も他の人々も皆共に仏の道に入らせて欲しい。」という切実な願いであります。
このお経文は、回向文によく唱えられ、大乗の教えをよく表したものとされております。大乗というのは文字どおりたくさんの人が乗れる大きな乗り物、これが法華経の教えであります。自分だけでなく、他の人たちも皆共に仏の世界に到達しようという志であります。
どんなに善い行いをしたとしても、自分の事だけにとどまっていたのではまだまだ未熟であります。人のために生かせるかどうかという事が大事となってくる所で、これを利他行といい菩薩の道であります。
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