私たちは、何故この末法に生まれて来たかご存じでしょうか。
お釈迦様が、約三千年前にインドで、これから無上道の教えである法華経を説くから良く聞きなさい。と申された時に私たちはその場から立ち去ってしまった為に、末法という混迷の世に生まれて来たのです。
お釈迦さまが、目の前にお出でに成られた在世ですら聞かずに立ち去った者が、お釈迦さまが姿をお隠しに成られた後に、お釈迦様の教えを聞こうとするでしょうか。
寿量品に「悪業の因縁を以って 阿曾祇劫を過ぐれども 三寶の名を聞かず」とあるように、在世に聞かなかったが故に悪業を積んで生死を繰り返し、この末法に辿り着いたのです。
私たちの罪障は、重くこの背に圧し掛かっています。そのため私たちの目の前には、その罪障の現象として色々な災いが起きています。
しかし、それは自分自身が過去に於いて、犯した罪ですから受け入れる以外にはないのです。決してそこから逃げてはならない。 日蓮聖人ですら「我無始よりこのかた悪王と生れて、法華経の行者の衣食田畠(えじきでんぱた)等を奪とりせしことかずしらず」と申されて、過去に犯した原因によって、今の結果となり法華経の行者として、広宣流布の修行をしている。「今ま日蓮強盛(ごうじよう)に国土の謗法を責(せむ)れば大難の来るは、過去の重罪の今生(こんじよう)の護法に招(まね)き出(いだ)せるなるべし」とは、伊豆・佐渡の流罪、小松原・龍口の死罪は、その現れである。
しかし、日蓮聖人はこの大難を「日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。後生には大楽(だいらく)をうくべければ大(おおい)に悦(よろこ)ばし」と申され、法華の有難さはここにある。つまり、過去の自分の重罪が現れることによって、それを今生に於いて懺悔ができる。そして、その結果は来世に於いては、大きな楽に繋がるからです。 ですから、いかなる問題が起きても、それを祈願・祈祷といったものに頼らずに自らがその問題と向き合い、過去の罪障と認識して懺悔せねばなりません。
懺悔とは、日蓮聖人の一番御喜びになられるお題目を伝え広めて行くことであります。 「我もいたし人をも教化候へ」 これこそが、ご自身の来世であります。決してここで退転してはいけません。 「今度強盛の菩提心ををこして退転せじと願しぬ」
南無妙法蓮華経
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