「迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり、たとえば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷いは心磨かざる鏡なり」
この一文は日蓮聖人御年三十六歳の建長七年(一二五五年)にお書きになった「一生成仏鈔」の一節でございます。
日蓮聖人はこの御書の中で、迷っている人を衆生と名づけ、悟った人を仏と名づけるのだ、と申しておられます。さらに、無明の迷いとは心が磨けていない事から生じるのでありますから、私達はどのようにして心を磨けばよいのでしょうか。それは深く信心をして、日夜朝暮にかかわらず磨くこと、ただ南無妙法蓮華経と唱えることであります。
私の信者さんに、毎月車で片道四時間もかけてお参りに来られるお方がいらっしゃいます。なぜこのような長い時間をかけてまで来られるようになったかと申しますと、ご自分の仕事に自信が持てなくなった事や職場の方々との意見の違いなどが原因で、生きていくことが本当に嫌になってしまい、自殺をするところまで追い詰められたそうです。このお方とお会いしたのが二年前で、私のお寺まで人伝いに聞いて来ましたとの事でありました。
本堂に入られて、ご本尊様の前で正座をして合掌して頂き、心静かにお題目をお唱えするよう申し上げました。初めは小さな声で自信無さそうにお唱えしておられましたが、一時間くらい経った頃からご自分の心の中に込上げてくるものがあったのかと思います。涙を流しながら一心にお題目をお唱えしておられました。
お参りが終わった後、そのお方が「何か不思議に涙が出てしまいました。あの涙が自分の心のつかえを取り除いてくれた感じが致します」といって、顔にも少し笑みが出てきました。私は、「お題目の中には、生きる力、人との和を持つ力などがあり、さらに、自分の我を取ることによって周りの方々の動きがわかるようになるのです」と申し上げました。
人は信仰をすることによって、また心を磨くことによって、人に対する慈悲の心を持ち、ご先祖様に感謝の心、ご両親に報恩の心を持つことができるのです。一人ひとりが一心にお題目をお唱えし、日夜朝暮にかかわらず磨くこと、これこそが「一念の心」と日蓮聖人はご指南になっておられます。
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